ホアキン・フェニックス主演版『ジョーカー』の第二作目!
複数の殺人により刑務所に服役していたアーサーは合唱サークルで彼に憧れを持つ一人の女と出会う…というお話し。
「こんなのジョーカーじゃない」
「観たかった続きはこんな話しじゃない」
本作を観てそう思った人もいるかもしれないし、僕自身の中にもそんな感覚が一瞬たりとも生まれなかったと言えば嘘になります。
だけど本作の真髄は、その失望を意図的に作り上げたところだと思います。
前作にあったのは抑圧からの開放による爽快感。
そして今作で感じたのは冷徹なまでの現実を見せてくる痛快さでした。
続編でありながら、まるで前作を否定するかのような物語りには驚きました。
でもじゃあなぜそんな失望しかない物語りを痛快だと感じのだろうと考えてみると、それは“憧れからの開放”をこの作品から感じたからです。
“何者かになりたい”とか“夢を叶える”とか“他人とは違う特別な人生を送りたい”とか、現代の人々は夢や憧れという呪縛に自らを雁字搦めにしているのではないか。
どんなに着飾っていても、どんなに素敵そうに見えても、どんなに世間を賑わそうとも人間はただの人間。
結局本人も民衆も憧れた“ジョーカー”なんてどこにもいなかった。
“悪のカリスマ”になろうとしてなれなかったただの男と、そんな男の表面だけを見て勝手にカリスマ性を見出し心酔・熱狂した民衆。
しかしショーの後に残ったのは、現実に負けた悲しい男と、勝手に崇め勝手に失望した哀れな民衆たち。
その渦の中心にあったのはただのからっぽだった。
これこそまさに最高のジョーク。