藍青

福田村事件の藍青のネタバレレビュー・内容・結末

福田村事件(2023年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

[まとめ]
・リアリティのある人間像とフィクショナルなメッセージ性が突きつける、権力構造の中での個々人の生き様について
・メディアに関する苦悩、叫ぶような数々のセリフ
・朝鮮人虐殺事件、部落差別を知ること、そして忘れないことの大切さ

[各論]
ものすごい映画を見た。

芸術作品としてというより、社会構造から生まれる抑圧を社会や政治のあり方というマクロな次元ではなく、ミクロな次元で個々人の関係性の中に立ち現れさせた、その手腕には脱帽し(森達也推しの贔屓目もあるかもしれないが)"さすが森達也…!"と唸った。

パンフレットに、監督が"この作品はいかに(登場人物たちが)普通であると感じさせるかが勝負だと思った"という旨の記述があったが、資料もほとんどない100年も前の閉鎖的な村社会のリアリティをすくいあげようとした仕事が素晴らしく、個々の人間を立体的に描くという点では成功していると感じる。実際、個々人の葛藤をすくいあげ、様々な側面を持つ人間であることを描いたことで、「こういう人、いそうだな」と私は感じた。

しかしその一方で、リアリティ以外のフィクショナルな要素も強く感じた。たとえば、権力サイドの人々と真っ向からそれに抗う人々の関係性のこじれが表されていたこと(東京の平社員の記者と部長のやりとり、村長と役場長のやりとり等)。日本という大小様々な村社会が入り乱れる社会で、権力を持たない側が権力を持つ側に真っ向から意見して排除されないなど考えにくかった。これは、フィクションの部分だと感じた。

また、これは作品なので作者の人となりをそのまま反映しているわけではないと頭ではわかっていても、かなり心に沁みるものがあった。権力側に抑圧されてきたという監督の無念、報道が権力側によるメディアへの怒り、自分も罪に加担してしまった罪業感、自分には何もできなかったという無力感、様々な苦悩が台詞の端々に滲んでいるように感じ、その痛烈な叫びに思わず涙した。

総じて、リアリティのある側面とフィクショナルな側面がうまく共存する良い作品と感じた。

印象深い台詞は様々にあるが、澤田家の智一と静子のやりとりについて言及する。

虐殺の現場を見てその一役をになった事で、心が麻痺し感情がなくなった智一。
静子の求めに応じず、自分の状態についての説明責任も放棄し、静子を悲しめていることから目を背けていた。その姿を、ただ受け止めて寄り添う静子。今の様な状態を望んだわけじゃないのに、どこにも行くあてがないという苦しみを抱えたまま暮らす静子。
この二人のやりとりは、どこか非現実的なやりとりなのに、同時にそこはかとなくある種のリアリティと信念を感じさせる。

たとえば智一が、朝鮮で目撃した虐殺について吐露する場面。
傾聴した静子が真顔で一言、"あなたはひどいことをしたのね""私にも"と言う。
なぜこの場面で"私にも"というセリフが出てくるのか? と引っかかったのだが、少し考えるとこの台詞は多層的な静子の思いが表れているように思った。

"あなたはひどいことをした"→智一の過去の加害性や罪を否認せず、事実をそのまま認識していると相手に伝える言葉

"私にも"→智一と静子の関係性においても、過去は影響しているという言及。これには二重の意味があるように感じる。
智一の行動(見ているだけで何もできなかったこと)が、静子にとっても大きなショックを与えたこと。
加えて、智一が静子に対して説明責任を果たさなかったこと。

ただ、これは智一の加害について指摘する言葉ではあるが、智一を責め立てる言葉ではない。

加えて、
自身が受けた被害について述べることで静子自身にも当事者性が付与されたシーンでもあると思う。静子も誰かの妻や娘であるという前に、主体性と意思を持つ一人の人間であるということ、自分の感情を矮小化せず被害の事実を真摯に受け止めたこと。世間から夫に従属する存在であることを押し付けられてきた静子の勇気、人間らしさを感じさせる。

"(ひどいことを)した"→上記の智一の加害性が、過去のこととして語り直されている。つまり、智一の過去の過ちを踏まえた上で、自分への加害もここで終わりにするという意思があるともとれる。そう思うと、静子は過去を否認せず過去を踏まえた上で、またゼロから二人の新たな関係性を紡いでいきたい、智一の今後の人生の可能性を感じている、という思いが込められているようにも感じる。

ただこのシーンと二人の関係性は、かなり非現実的なフィクショナルなものでもあると思う。
たとえば、心の傷を負った人の状態があまり丁寧に描かれていないと思った。
虐殺の場面を目撃したあと、感情の麻痺が起き解離的な状態になっていたのだとしたら、最初の村長と役場長と3人で話す場面で苛立ちをナチュラルに表出するということは少し考えづらい。また、記憶を想起するときにはもっと強烈にフラッシュバック等PTSD様の状態になっていても自然であるが、取り乱さずに自然に思い出して語っていたのはかなり不自然だった。
また、静子の発言は(意図とは違うにせよ)智一を非難していると受け取られかねない発言であり、智一が取り乱さず静子の話を聞けていること自体が不自然だった。

色々な非現実性もあれども、作品全体のメッセージは明確で、朝鮮人虐殺の事件やそれを引き起こした社会構造が今現代にも姿形を変えて息づいていることを感じた。
私は日本にルーツのある人間なのだが、この事件は過去の話ではないと思った。
ヘイトスピーチや差別のなくならない今現在においても、日本ルーツの人間が朝鮮ルーツのある人々と個別の関係性を結ぶときには、歴史の面影が関係性のこじれに発展する恐れは大いにあるし、そもそもこの事件のことを鑑賞以前に知らなかった自分は、朝鮮ルーツの方々の置かれてきた立場に無頓着であったのだと我が身を振り返り、考える良い機会にもなった。
藍青

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