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正欲の雑記猫のレビュー・感想・評価

正欲(2023年製作の映画)
4.7
 中学のクラスメイト桐生夏月と佐々木佳道は、水飛沫や水風船といった水の動きにしか性的興奮を抱くことができないという性的指向を持ち、二人だけでその秘密を共有していた。十数年後、ショッピングモールで契約社員として働いていた夏月は、佳道が地元に戻ってきたことを知る。再会した二人は互いの世間体のため、結婚することを選ぶ。理解者を得る喜びを知った二人は、自分たちと同じ性的指向を持つ人たちと互助会のようなコミュニティを形成できないかとネット上で模索するが、これが大きな悲劇へと繋がっていく。


 自分とは違う性的指向を持つ人間に対して想像をめぐらす場合について考えてみる。例えば、異性愛者が同性愛者について想像して見る場合。それが100%実体に即しているかはさておき、自身が異性に対して抱く感情を、同性に対して抱く人が存在していると想像するのはさほど難しくはない。これはまだ自身の理解の範疇におさまるからである。自身の理解の範疇におさまる存在に対しては、受容の気持ちが生まれ、そういった人たちとどうやって付き合っていけばよいのか模索していける光明が見える。翻って本作。本作に登場する登場人物たちの性的指向の向かう先は人ではなく、水。彼ら彼女らは、噴水から勢いよく水飛沫が飛ぶさまや、水風船が弾けて水が飛び散る様に性的興奮を覚えるのである。この性的指向を持ち得ない大多数の人たちにとって、これを想像し、理解することは著しく困難だ。異性愛者が同性愛者の性的指向を想像するときと比較して、あまりにもとっかかりがなく、おそらくは一生をかけたとしても少しも理解することはできないだろう。世の中には自分の理解の範疇のはてしなく外側にいる人達が一定数おり、そういった人たちとは永遠に理解し合えることはない。しかし、そんな人たちにも皆と同じように理屈があり、皆と同じように実感があり、皆と同じように悩みがあり、そして、皆と同じようにかけがえのない生活がある。これが本作における主張の一つだ。


 多様性という言葉がある種乱用されている現代。自分は多様性を理解している、受容している、実践しているという振る舞いをしておきながら、実際には全ての他者を自身の物差しに無理やり当てはめて、理解した気になっている人たちが掃いて捨てるほど存在している。本作は、そういった人たちに向けて、「じゃあ、この人たちは理解できますか?受け入れられますか?」と投げかけている。本作の場合は、水に性的興奮を覚える人たちが登場するが、これ以外の様々な性的指向においても、おそらく、自身と違う性的指向を理解することは実質的には不可能であると思われる。そして、自身と違う性的指向の人たちとどうやったら皆が幸福に暮らせる世界を作れるのかという問いは、まだ世界の誰も答えを出せていない。ただ、ではどうしていけば良いのかというと、絶対に理解し合えることはないことを肝に銘じながら、それでも1%でも理解しようとたゆまぬ努力を積み重ねるという矛盾した行動を互いに地道に続けていくしかない。本作はこれを示している。


 本作において、大多数の観客にとって最も近いポジションにいる登場人物は稲垣吾郎演じる検事の寺井であろう。彼は児童買春を行っていた男性・矢田部とともに児童の動画を撮っていたことから、主人公の一人である佳道も同様に小児性愛を持つ容疑者であり、逮捕の必要ありと判断する。実際には、佳道は矢田部とは違い、そこに映る水を目的に動画を撮影していたため、完全なる誤認逮捕だ。本作は佳道と彼の妻となる夏月の人となりを丹念に描いて見せるため、観客にとって寺井は悪役に見えてしまう。しかし、冷静に見れば、この状況で佳道と矢田部の性的指向が異なっていると判断するのは社会通念上ほぼ不可能であり、寺井のとった行動は社会的には全面的に支持される行動である。佳道は社会一般の理解の範疇のはてしなく外側に存在しているのだ。しかし、では彼は逮捕されたままでよいのか。そんなはずはない、なぜなら完全な無実なのだから。本当は逮捕すらされるべきではなかった。では、どうすれば、こんなことが起きない社会にしていけるのか。そのためには、上で述べた通り、考え続けること、これしかないのである。


 上で本作の自分なりの解釈を述べた際に、「絶対に理解し合えることはないことを肝に銘じながら」と枕をつけたが、本作は「ちょろっと考えたくらいで分かった気になるなよ」という釘刺しをかなりしっかりと行ってくる。自身の息子の不登校に全くの理解のない寺井が基本的には、釘さされを一身に担っているのだが、これに加えて、主要人物のうちの二人である神戸八重子と諸橋大也が通う大学のダンスサークルのリーダー・高見が短い出番ながら良いスパイスとなっている。高見は作品を通して善性の人物である。学園祭の催しで多様性をテーマとしたダンスパフォーマンスを行うことに積極的であるし、サークル内で孤立気味の大也を心配もしている。ただ、彼女には圧倒的に想像力と理解力がなく、発言の一つ一つが著しく薄っぺらい。結局は自分の頭の中にあるものだけで世の中が分かった気になっており、さも理解のある人間のような素振りで実際には自分の理解の範疇の外に全く目を向けていないのだ。神の視点にいる観客だけが知りうるこの残酷な現実を前に本作は、「お前たちはこんなことやってないだろうな」と厳しく突きつけている。
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