雑記猫

理想郷の雑記猫のレビュー・感想・評価

理想郷(2022年製作の映画)
4.5
 スペイン・ガリシア州の小さな村に自然の中での生活を求めて移住してきたフランス人夫婦のアントワーヌとオルガは、有機野菜の栽培と販売で生計を立て、空き家をリフォームして人を呼び込む活動を行っていた。しかし、村に風力発電所を建設する計画が浮上し、その賛否で夫妻と村人たちは激しく対立する。風力発電所を受け入れることで補償金を得たい隣人のザンとロレンツォの兄弟は、景観や自然環境への影響への懸念から建設に反対する夫妻へと激しい嫌がらせを繰り返す。両者は平行線のまま、アントワーヌとザン・ロレンツォ兄弟の諍いはとめどなくエスカレートしていく。


 村の外から移住してきたインテリと、生まれてこの方、村の外へ出たことのない学のない村人との激しいご近所トラブルを描いた本作。終始険悪な雰囲気が漂い、一触即発の胃がキリキリするような感覚が続く本作の空気作りは実に圧巻である。作中では、主人公のアントワーヌたち夫妻への隣人のザン・ロレンツォ兄弟たちの嫌がらせが延々と繰り返されることとなる。この嫌がらせ一つ一つが浅慮でしょうもないものばかりで、そこに彼らの人生経験の薄さと学の無さがありありと見て取れるのだが、これが実に生々しくリアリティに溢れており、作中のアントワーヌのようにとにかく鑑賞中イライラと不安感が常に胸でうずまく作品となっている。しかし、物語の進行とともに、この非常にたちの悪い兄弟たちの心情が少しずつ提示され始めると、作品の見え方が徐々に変化していく。もちろん、アントワーヌとザン・ロレンツォ兄弟は被害者と加害者の関係であり、0:100で兄弟が悪い。しかし、彼らの置かれている状況や心情が明らかになるとともに、アントワーヌの理想主義的な行動や非知識階級の人たちへの理解の無さが事態を複雑化させている状況も露わになっていき、どっちもどっちとまでは言えないまでも、両者の埋めがたい大きな隔たりにより事態が袋小路に陥っている状況がまざまざと浮かび上がってくるのである。この作品構造の明かし方の手際が実に素晴らしい。


 と、ここまで書いてきたが、実は本作における本題はここではない。というより、本作における主人公は実はこの3人の誰でもない。アントワーヌの妻のオルガ、彼女こそが本作の真の主人公なのである。ここまでで書いてきた感想で一度も彼女には触れていないが、それもそのはず、作品の2/3ほどが終わるまでの間、彼女はほぼほぼ背景と同化しているに等しい。ザン・ロレンツォ兄弟にあてられるように、狂気に取り憑かれていくアントワーヌのそばで彼を支え、時に諫めるも、基本的には彼女の役割はアントワーヌの添え物程度でしかないのである。しかし、アントワーヌと兄弟の諍いのエスカレーションが行くところまで行き着き、アントワーヌが絶命するとともに、言い換えれば、アントワーヌというベールが剥がされたとき、ついにオルガという真の主人公の全容が観客の前に晒されるのである。


 アントワーヌの死後の第2部では、オルガのことさら複雑な内面が描かれ始める。彼女は夫のアントワーヌのように表立って村人と対立したり煽ったりすることはせず粛々と日々の仕事を片付ける生活を送っており、アントワーヌのなしえなかった村への同化をある一面では体現している。しかし一方で、ある日を境に行方不明になった夫を単身探し続ける並々ならぬ執念を持ち、本当に譲れない一線ではどんな相手でも恫喝する強かさも有している。第2部から登場するアントワーヌとオルガの娘マリーと同じように、観客もなかなか彼女の複雑な内面を理解することができない。しかし、彼女の執念の捜索でザン・ロレンツォ兄弟逮捕の糸口が見つかるラスト、彼女が彼らの母親に彼らが近いうちに逮捕されるであろうことを伝える場面で、彼女の内面がはっきりと明らかになる。つまり、彼女は作中の誰よりも激しくどす黒い怒りを募らせていたのである。その対象はもちろん村であり、ザン・ロレンツォ兄弟であり、一部は夫のアントワーヌに対してでもある。第1部ではオルガは前述の通り、ほぼ背景や添え物のような人物だ。しかし、背景だからこそ添え物だからこそ、兄弟の幼稚さと弱さを、夫の杜撰さと傲慢さを、そして村そのものの本質を実に深く見抜いていた。だからこそ、彼女は村に同化し、波風を立てず、その傍らで粛々と反撃の機会を待ち、そして、夫を殺した2人の兄弟に対し、心に最も深く傷を残すやり方で復讐を見事に鮮やかにクレバーに完遂するのである。


 限界集落におけるよそ者と原住民の息が詰まるような対立、それだけでも人間の汚い部分が剥き出しになったような真に迫る生々しさがこれでもかと描かれているにも関わらず、実はこれは本題の隠れ蓑に過ぎない。この見せかけのメインストーリーの裏側で、静かに息を潜めていた一人の怪物が、その正体を露わにする心臓を掴まれるようなスリル。それこそが本作の肝であり、本質であり、本当のテーマなのである。一粒で二度、いや、それ以上の味わいを楽しめる一本。実に贅沢な作品であると言えよう。
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