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ゴジラ-1.0の雑記猫のレビュー・感想・評価

ゴジラ-1.0(2023年製作の映画)
4.6
第二次世界大戦末期、特攻兵の敷島浩一は特攻を免れるために機体不良と偽り、守備隊基地のある大戸島を零戦で訪れる。しかし、そこで恐竜のような巨躯の怪物ゴジラの襲撃に遭うこととなる。整備中の零戦の20ミリ砲によってゴジラを殺傷できるチャンスを自身の恐怖心のために棒に振った敷島は、整備兵の橘以外の整備兵が全滅するという事態に深く傷つきながら帰還する。成り行きで両親を亡くした女性・大石典子と戦災孤児の明子とともに暮らすことになった敷島は、米軍の残した機雷撤去で生計を立てながら穏やかな生活を送る。しかし、そんな中、米軍によるクロスロード作戦の影響で巨大化したゴジラが、日本に向かってきていることを知る。



 「邦画としては」、「ゴジラ映画の中では」といった枕詞抜きに大傑作と呼ぶにふさわしい一作。まず印象的なのは、本作のゴジラの怖さ。近年のゴジラと言うと、ハリウッド版ゴジラはその巨大さゆえに人間にはほとんど関心がなかったし、『シン・ゴジラ(2016)』はそもそも感情があるのかすら不明であった。これに対し、本作のゴジラは明確に人間に殺意を持ち、意識的に人間を殺傷とする存在として描かれている。そのサイズ感も絶妙で戦後まもない時期のビル群よりは頭一つ大きいものの、一人一人の人間を視認できなくなるほどは大きくないため、いつ目をつけられて襲いかかられるか分からない存在として抜群の恐怖感をはなっている。そして、この印象を際立たせるように、本作では明確に人が死ぬシーンが繰り返しはっきりと描かれる。ゴジラを震災のメタファーとして描きつつも、人の死については間接的な表現で描いていた『シン・ゴジラ』とは非常に対照的なアプローチだが、本作のゴジラは原点に戻った戦争のメタファーであることを考えると、この演出は妥当であり、むしろしっかりと逃げずに描ききった本作は題材に対して誠実であると感じる。あの『シン・ゴジラ』ですら鑑賞後にはゴジラに対して多少の愛着が湧いたものだが、この徹底した演出のおかげか、本作のゴジラに対しては恐怖と嫌悪感しか湧いてこないのだから驚きだ。



 本作は第二次世界大戦中の1945年から戦後の1947年を舞台としており、大雑把に言えば、第二次世界大戦で心に傷を負った者たちが、その戦争にある種のリベンジをする物語となっている。ここで肝なのがリベンジする対象はあくまで「戦争」であって、「日本政府」や「連合国」ではないところである。ここが本作の巧みなところで、本作では空襲による焼け野原になった東京や特攻隊にいたトラウマといった第二次世界大戦による大きな傷跡を下敷きにしつつも、直接的な破壊描写はゴジラによるものに限っており、空襲などの戦時下における戦闘行為のシーンは一切直接的に描写されない。これにより、ある一面ではゴジラを戦争のメタファーとして描くことで、その存在に敗戦による喪失感や敗北感を重ねている一方で、別の一面では戦争とは別の独立した存在であるゴジラに作中の敵意を向けることで、戦争に対する憤りの矛先を日本政府や連合国から巧みにゴジラにずらしているのである。これにより、本作では反戦をはっきりと描きつつも、ある種の党派性や政治性といったものは脱臭することに成功している。この手法に対する是非は色々とあるだろう。ただ、ゴジラが銀座を壊滅させる明らかに戦時中の空襲を想起させるシーンを見たときに、ストレートに東京大空襲をこの惨たらしさで世界的に公開する映画で描けるだろうかという疑問が自分の中で浮かんだ。戦争をゴジラという架空の存在に仮託するからこそ、メタファーというワンクッションを置くからこそ、逆に現実が描ける。そういったこともあるのではないだろうか、それがファンタジーやSFの強みなのではないだろうかと強く感じるのである。



 本作では日本演劇界の手練たちが集結しているが、その中でも主演の神木隆之介の演技は圧巻である。特に強いわけでもない普通の男が戦場に駆り出されてしまった悲しみ、一人では背負いきれないほどの業を抱えてしまった苦しみを演じるその表現力には目を見張るものがある。特に印象的なシーンが2つあり、まず1つ目は、自宅で敷島が悪夢から目覚めた後に取り乱すシーン。自分のせいで多くの整備兵を死なせてしまった罪悪感から錯乱するシーンの焦燥ぶりは目を見張るものがあり、この演技によって敷島という男の人となりや心の摩耗具合がありありと伝わってくる。そしてもう一つは、ゴジラによる銀座破壊の後の慟哭のシーン。絶望して慟哭するというありきたりで、いくらでもチープになりうるシーンで、あれほどの説得力の絶望感を表現できる俳優がはたしてどれだけいるであろうか。本作の説得力と緊迫感は間違いなく神木隆之介の演技力がなければ成立していない。それだけの迫力と覚悟が画面越しにびんびんと伝わってくる鬼気迫る演技を見せている。



 ここまで褒めちぎってきたが、気になる点がないわけではない。戦争によって傷ついた元日本兵たちが、立ち直り再生していく過程が、ゴジラ討伐という別の戦闘行為という本作のプロットに対して、これでいいのだろうかという気もする。もちろん、作中での吉岡秀隆演じる研究者の野田がゴジラ討伐の意義を説くシーンでこの疑問に対するエクスキューズはなされているし、対象が超巨大なために兵器が持ち出されているものの、やっていることは町に降りてきた熊を駆除するようなものなのだから、こういった批判はあたらないという思いもある。ただ、若干、大和魂の賛美のような思想も垣間見えて、違和感がなくもないのである。また、女性キャラが”女神”か”冷蔵庫の女”しかいないのも不満が残るところ。本作は、敷島という戦争によって心がズタズタにされた男が再起する物語で、男性キャラの多くも敷島の業という文脈に女性キャラと同様に乗っているので、取り立てて脚本に偏りがあるというわけでもないのだが……。



 2016年の『シン・ゴジラ』を鑑賞した際には、怪獣映画やゴジラ映画といったジャンルへの偏愛を持たない幅広い層への訴求力を持つゴジラ映画としては最適解を見つけてしまったなと感じたし、これ以上の作品は構造上作れないだろうなと思ったものである。しかし、激しく暴れまわり感情を露わにするゴジラと、エモーショナルな人間ドラマという『シン・ゴジラ』とは全く別のベクトルで、『シン・ゴジラ』に比肩する、もしかすると、これを超えるほどの傑作がここに誕生した。今後作られるかもしれない国産ゴジラの次回作にとっては、さらに超えなくてはならないあまりにも高い壁が生まれたと言えるだろう。
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