敢えてクィア映画と言いたい。
だけど当事者がエンパワメントされるようなものではない。
何故ならこの映画はクィアの存在を透明化してしまう社会と大人に対しての映画だと思うから。
だからあんな結末になる。
まるでファンタジーのような美しい景色の中で閉じた環境と閉じた関係性に収束させたラストシーンは好きではない。
直感的に死の暗喩だと思った。
あの子達を幸せに“させなかった”のは紛れもなく周りの大人とクソみたいな社会だよね。
あのラストシーンは子供を守る大人として社会に対しての責任を問われていると思う。
この映画を今現在自分の性や性的指向に揺らぎを感じている子供たちが見たらどう思うのかと思ったら気分が沈んでしまった。
大人になった当事者の自分でさえ深く傷つき絶望した。
彼らの痛みや葛藤は決して誰しもが経験する普遍的な葛藤ではないし、思春期特有の一過性のものでもない。
特に星川依里は明確に自身のSOGIを理解して自認していた。
2人とも揺らぎを抱えながらあんだけ日常的にマイクロアグレッションを受けてたら自尊心は削られるしなんで生まれて来たんだろう?って思うよ。
「この白線から出たら地獄ね」
誰かが勝手に決めた“白線”をはみ出したとしてもそこは地獄なんかじゃない。
周りの大人が子どもの未来を地獄なんかにしちゃいけない。
あなた達は生まれ変わらなくても幸せになれると言いたいしそう思える社会であるでき。
私は2人を心から肯定して祝福したい。
この映画を見た私達はこの映画がプライドマンスである6月に公開された意味と子どもや未来に対してなにが出来るかを自分の胸に問う必要があると思う。
虐待のシーンに関しては絶対に注意喚起が必要だと思う。