出発の合図のように坂本龍一のメインテーマが鳴り、走り出した後ろ姿が日の下に照らされたとき、まるでせき止められていた水流のように涙が溢れ出してきた。
あの時すごく、光が見えたんだ、ぱぁって。
後も先も関係ない、心と心が結びついたときにだけ見える光が。
そして、何より、脚本を書かれた坂元裕二さんの「彼ら」へのやさしい視点にも泣かされました。
「きみは、きみのままで、いいんだよ。」
こんな物語を書く人がこの世界にいることが、何よりも眩しい光だ。
映画館から出たら、世界の見え方が変わっていた。
手を繋いで寄り添いながら歩くピンクと赤のランドセル。
その尊さに、胸が締め付けられる思いがした。
決してハッピーエンドではないと思うけれど、あそこで映画を終わらせたことこそが重要だし、その意味についてずっと考えてたい。
これは望んでいなかったアイデンティティの目覚め(タイトルにある怪物のひとつ)にやさしく毛布をかけてあげる映画だ。
「しょーもない、誰かにしか手に入れられないものをしあわせとは呼ばない。誰もが手に入れられるものをしあわせと呼ぶの。」
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「怪物」2回目 7/10(ネタバレを含みます)
一度観ただけでは咀嚼しきれなかったので二度目を鑑賞。
そして知る。一度目の私はとても大事な場面でトイレに立っていた事を。
【怪物の意味】
早織にとっての怪物→保利・教員たち
保利にとっての怪物→早織・教員たち
湊・依里にとっての怪物→本当の自分たち
そして、三者にとっての怪物への畏れを加速させるきっかけとなったのが噂話、憶測、悪意のない悪意。
それらによって三者は自分にとっての怪物たちへの不信感を加速させる。
だが、それぞれのターンとは別の人物のターンではみなそれぞれが家族想い、生徒想いの善良な市民であるように、それぞれが【怪物】なのではなく、それぞれから見た虚像が【怪物】たり得るのではないか。
他人から見た悪意を纏わされた他人を【怪物】と呼ぶのだ。
よって、怪物なんてものははじめから存在しない。
【波紋のように拡がる音楽】
物語に不協和音が流れるとき、登場人物の心が動いたとき。
何度観ても場面場面で水面に波紋が拡がるようにアクセントをつける坂本龍一の音楽が素晴らしい。
【校長先生の行動は湊を助けた】
早織、保利のターンで悪の権化のように描かれていた校長先生の嘘は湊・依里のターンでは物語の中でいちばん守るべき湊の純粋なこころを守っていた。
このことからも誰かにとって怪物に見える人物が誰かにとっては救いの神であることがわかる。
【ラストシーンは死後の世界?】
湊と依里が何度も生まれ変わりの話をしていること、生まれ変わりの話をした後に「準備しよう」と言っていること、ラストシーンの光さす原っぱで「生まれ変わったのかな?」と依里が言っていることから、私は彼らがいるのは死後の世界なのかな?と感じた。
そのせいで一度目であんなに光を感じたシーンを今度は哀しく感じたけれど、謎が解けたような気がして気持ちはスッキリしていた。
【本当に尊いこと】
きのみをもいだり、きみがいつも遊んでるおもちゃを一緒に作ったりした時間が、ほんとうに尊いこと。