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君たちはどう生きるかの2049のレビュー・感想・評価

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
5.0
 あまりの忙しさに感想を書くどころか映画を観る暇すらないが、宮崎駿監督の新作となれば観ないわけにいかない。
 そして本作の大筋と難解な枝葉を観て感想を書かずにはいられなくなった。

ネタバレありで書きます。未見の方はご注意ください。


 まず冒頭、階段を駆け上がる姿に眞人の心情が重なるアニメーションは見事としか言いようがない。火の粉と呼ぶには大きすぎる、風に舞い降り注ぐ燃え滓のリアルな描写にも思わず唸る。
 そして意思を持つかのようにうねる炎…あれはまさに人間の殺意を体現した姿ではないか。(劇中の1942、米軍は初めての日本本土への空襲を行い、東京に焼夷弾を投下している。)

母親の久子を失った眞人は心に大きな傷を負うことになる。父は久子の実の妹である夏子と結婚し、父と眞人は夏子の実家に身を寄せることになる。夏子は妊娠している。眞人が簡単に受け入れられるはずもない。

 宮崎駿監督が幼い頃、監督の母親は長らく結核によりほぼ寝たきりの状態が続いていた。眞人の母親に対する複雑な心境は監督の少年時代を投影させたものだろう。

 眞人の父は飛行機工場の社長らしい。これも宮崎駿監督の父親が宮崎航空興学の役員であったことと似通っている。眞人は戦争により母親を失い、戦闘機の部品を作る父に育てられていることになる。
「戦争で亡くなった方が可哀想」という夏子に対して父は「そのおかげで会社は大忙しだ」と答える。何と無神経な男か。しかし金を稼ぎ家族を養うことに人生を捧げる当時の男らしさを持ち合わせた父だったのは間違いない。

 眞人が父の帰りを遅くまで待つシーンがある。父が帰ってくるが夏子とキスしていることに気づき自室に戻る。眞人は父のことが好きでもっと自分を見て欲しいと思っているが夏子に父を奪われたような気さえする。知らない人間が新しい母親だと名乗り、父は新しい母親ばかり気にかけている。眞人の孤独は更に深まることになる。

 父の運転するダットサンで学校に乗りつけた眞人は同級生に絡まれる。車など持っている家庭はほとんどない、ましてや戦時中で慎ましい生活を求められている時に眞人が同級生にとって異質なのは間違いない。
 眞人はついに自傷という形で孤独を爆発させる。
「怪我をすれば学校に行かなくてよくなる」「怪我をすれば同級生が疑われ叱られるだろう」こんな思いもあったかもしれない。しかし、一番は「父親に自分を見てほしかった」のではないか。しかし父親は有害な男性性を十二分に発揮し学校へ向かう。眞人のことはやはり見ていない。

 夏子が失踪し、アオサギに導かれ眞人は夏子を連れ戻すため異世界へと向かうことになる。ここからは自分の解釈できた部分だけ書き留めておく。

 まず何故夏子は自ら異世界へ向かったのか。姉の死、眞人の怪我、人間の悪意に触れ「この世界で子どもを産むわけにはいかない」と思ったのではないか。争いのない、平和な場所で子どもを産むことを望み、大叔父が作った世界へ踏み込んだ。

 そして大叔父があの世界を作ったことも同じ理由ではないか。あの石の力を使えば様々なことが出来たはず。しかし大叔父は社会から見つからないよう建物で覆い隠し、自分自身はその石の中に消えてしまった。彼はあの石の力に気づき、他の人間、社会、世界に見つかるのを恐れたのだ。
「大叔父は賢すぎて頭がおかしくなった」との説明があったが、大叔父はおかしくなってなどいない。寧ろ殺し合う世界で正しくあろうとした人間だった。人間どうしで殺し合う世界に絶望し耐えきれなくなった結果、石の力を使い【新たな世界】を作ることにしたのだ。殺し合うことのない、平和な世界を。

 アオサギの正体はなんだったのか。アオサギは日本では古くから醜い鳥として描かれることもあったようだ。確かに本作でも異世界に入るまでは恐怖さえ感じさせる異様さを持っている。しかし異世界では眞人に協力する存在になる。眞人は彼を友達と呼ぶ。
 エジプト神話で登場するベヌウという聖鳥の原型はアオサギだと言われている。ベヌウが卵を温め、卵から太陽が産まれる。つまり世界の始まりの鳥とも言える。更にベヌウ(アオサギ)は炎で焼かれても灰の中から蘇るという。つまり本作のアオサギは【再生】の象徴なのだ。
 
 では異世界でのペリカンはどうか。彼らはワラワラ(現実世界に生まれる魂)を食べることからヒミにより殺される。瀕死のペリカンが眞人に語る「気づいたらこの世界に連れてこられていた。この世界の海は食べる物がなく、ワラワラを食べるしかない」
 大叔父が理想の世界を構築しようとする中で生まれた【犠牲者】がペリカンなのではないか。ペリカンはキリスト教では犠牲心の象徴とされる。しかし彼らは望んだわけではなく、社会の綻びや歪みの犠牲になった存在なのではないか。現代に例えるなら、資本主義社会に弾かれ、罵られ、居場所を失い、犯罪を犯すに至ってしまった現実社会の犠牲者のように…とどめをさそうとしていた眞人は、ペリカンの話を聞き、死んでしまったペリカンを埋めるため穴を掘る。
 
 異世界で国を築いている存在がいる。インコ達だ。彼らは人間を食べる。しかしこれは正確ではないと思う。彼らが害を為すのは「外から来た存在」だ。「外から来た存在」は受け入れられない。自分達と違う者は受け入れられない。だから殺す。彼らは紛れもなく【ナショナリズム】の象徴だ。
 叔父は人間どおしが殺し合う世界に絶望し平和な世界を作ろうとした。しかしそれは結局、思想や価値観の違う他者を拒絶し排斥することに他ならない。叔父が作った平和なはずの世界は、他者を受け入れられないインコ達により破壊されることになるのだ。

 叔父は眞人に異世界を託そうとする。しかし眞人は自分では世界を維持できないことを知っていて叔父の頼みを断る。「この傷は僕の悪意の印です」と眞人は言う。孤独に耐えきれずつけたその傷を悪意と呼び、出会ったばかりの夏子を探し異世界へ足を踏み入れ、死んでしまったペリカンを埋めるため汗を流す。眞人は母が残した小説の主人公のように優しく誠実な心を持ち、異世界で成長した。
 眞人は辛い現実が待つ元の世界へ戻ることを決断する。「父や母と生きていきます。友達を作ります。」と。ここで本作のタイトルに対する答えが出たことになる。

 本作の大筋は失踪した母を探し異世界へと踏み入り、母を取り戻すという単純な話しだ。しかしその中に多くの現実社会の問題を練り込んでもいる。考察しがいのある素晴らしい作品だ。


 何より私が心を打たれたのは、ヒミのセリフだ。現実世界に戻るヒミを眞人は止めようとする。「戻ったら火事で死んでしまう」と。ヒミは答える「火は怖くない。お前を産むんだ、素晴らしいじゃないか。」

 例え過去に辛い経験をし二度と癒えない心の傷があろうとも、例え未来で悲劇が待っていようとも、その出会いだけで何も怖くはないのだ。ヒミは、母は、心の中に生き続ける。思い出せばいつだって灰の中から彼女は蘇る、不死鳥のように。

 我々の隣りにいる人、その人との出会いだけで、我々は生きていける。怒り、憎しみ、悲しみにいくら晒されようとも。

 アオサギは【再生】の象徴だと書いた。眞人はアオサギに導かれ、【再生】し現実世界へ戻る。

 とてつもない大傑作。出来ることならまだまだ映画を作ってほしい。
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