枝オンニ

君たちはどう生きるかの枝オンニのレビュー・感想・評価

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
4.0
作品全体を通して生命を尊び、その守護としての母たる女性、そして穢れながらそれを守ろうとする男性、その中で選ばれし少年性という構造を感じた。最も崇高な生命と、それを生み出す母たる女性。これらを守る男性は生命の領域に立ち入ることを許されない。守るために強くなる過程で争いを生み時に子殺しに至る穢れた存在だからだろうか。そうした宿命にある男性の中で美しさを保ち続ける選ばれし存在がいる。少年である。穢れなき少年のみが母たる女性と共に生命の領域に立ち入ることを許され、そこから美しい世界を創造する権利を得る。

宮崎駿は当初自らを選ばれし存在だと思っていた(なりたかった)のかなと感じるし、過去の作品を通して彼自身が保ち続けた少年性は証明されている。しかし彼がそれで得たのは世界の創造への挑戦権に留まる。実際にその意思を実現するにはあまりに障壁が多すぎた。彼の生い立ちからして母たる女性に守られながら世界を創造するのは難しかった。他の子供達よりも先に女性を守る男性になることを強いられてきたのだと思う。父親が航空産業に従事しながら母を、子供を守る姿を目にして、守るためには穢れなければいけないことを痛感していたのではないだろうか。

本作からはその挑戦の集大成として、「できたのかなぁ...できなかったかなぁ...」という彼の爽やかな悲嘆が伝わってくる気がする。(悲嘆といっても彼の人生の中に存在した誰よりも自分ができていた方であるという自負は確実にあって、それが嫌いなんだけど結果を出しているので彼の価値基準上では認めざるを得ない)その上で悪意さえ飲み込んだ次世代に自身が成し遂げられなかった美しい世界を創る挑戦の続きを託そうというメッセージが主題なのだろう。

ここまでが多くの人が至るこの映画の主題(あくまで1つの理解)だと思う。ただ自分としては過去に観た「アンチクライスト(ラース・フォン・トリアー)」との共通性、相反性を強く感じそれが強いメッセージとして伝わってきた。

アンチクライストでは生命を尊びその守護は神であった。そして神を守るのは男性の役割であり、魔女たる女は子殺しの悪魔だった。本作と似たり似なかったりの面白い構造だと思う。更にエデンは下の世界であり、顔のない女はペリカンであった。とはいえニーチェによればキリスト教は弱者(男性)のルサンチマンの行く末であるし、キリスト教も母たる女性(神)という概念を一応は持つ。アンチクライスト自体相当難解で正直よくわからないので正確にどこが同じでどこが違うとは言い切れないが、やはり自己の内面への探究心に従うと人は心の中に山や海を見出し、その山には数々の死体が埋まっているものなんだなと思うと面白い。

すごく大雑把に言えば宮崎駿は「穢れた男のせいで!」と思っているし、トリアーは「穢れた女のせいで!」と思っている。(すごく語弊があると思う)もちろんトリアーがアンチクライストを撮ったのはまだ若い頃だし、彼がこの先新たな内面性を映像に投影することはあるかもしれない。しかし穢れなき純粋な少年性を求めた宮崎駿と、穢れた女性性に気づいてしまったトリアーと、両者の内面性を知った我々はその相剋の克服の先にこそ正解を見つけたいと思わされはしないだろうか。両者共に極端であり、同時にその挑戦は達成されていない。だとしたら次世代の自分が、両者の相剋を克服するための挑戦を担いたいとは思わないだろうか。「どう生きるか」という題名は傲慢だと批評されることも多いし、自分としても宮崎駿は凄いけど傲慢なおじさんだと思っているので不服だが、本作ばかりは、新しい形で挑戦の続きを担ってみてはくれないかという我々次世代へのメッセージとして受け取りたいと思わされた。

どちらかといえばトリアー側の考えに傾倒して生き方が迷走していた自分にとって、この映画は良い薬だった。アンチクライストなんて訳のわからん映画を観た昔の自分を褒めてあげたいし、訳のわからない映画もいつかこうやって形を為すと思うと映画も、人の内面性を覗くこともとっても面白いなと感じた。

俺も人生の集大成の映画とか作りテェ〜
枝オンニ

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