まぬままおま

朝がくるとむなしくなるのまぬままおまのレビュー・感想・評価

朝がくるとむなしくなる(2022年製作の映画)
4.0
映画の日だから最速でみてかきました~
唐田えりかが出演していますし。

無理して会社にいけなくなり、コンビニでバイト中の飯塚希(!)(唐田えりか)と偶然出会った中学のクラスメイト・大友加奈子(芋生悠)。本作は、そんな希が通勤途中に引き返してしまった橋を渡れるようになるまでの二人の日常を描くシフターフッド物語である。

労働の描写が、ポスタービジュアルの希の服装のようにもこもこのゆるふわだからどうなの?と思いつつ、希と加奈子の居酒屋シーンで完全にノックアウトされた。希の多彩な表情がみれちゃったし、枝豆が飛び出すとか反則級の可愛さでしょ。だから私は本作を「大丈夫」と言いたい。

そう本作のパンフレットに掲載される「director's interview」では、学校や職場などで平気じゃないのに平然と「頑張る」ことが求められる状況と肯定としての「大丈夫」について言及がある。このように本作は「頑張る」状況でも「大丈夫」と言い合うことで絆を紡いでいくのだが、本稿では「頑張る」に付随する「無理する」と「大丈夫」と言うときの「緩み」について述べてみようと思う。パンフレットが500円であり、低価格なのでマスト・バイとは思いつつ、「折本」でレビューは載っていないので、本稿が勝手ながらその代わりになればいいと思っている。

以下、ネタバレ含みます。

希が残業続きの会社を辞めて、コンビニのバイトを始めても「無理する」状況は度々やってくる。それは冒頭のレジのシーンで、客のじいさんに雑な応対をされても店員らしく振る舞うように、心を押しつぶしたり、逆に強引にやらざるを得ない時は往々にしてある。そんな無理する描写が本作には度々ある。彼女が無理してカーテンを開けようとしたらレールは外れるし、バイトのシフトは店長に無理矢理入れられる。飲み会では酒が強い振りをして、無理してハイボールを飲む。皆がビールを頼む中、ノンアルじゃなくてハイボールを頼むのは何か可愛いと思いつつ泥酔してしまう(その姿も可愛い)。このように「無理する」ことは彼女に「頑張る」ことを強いるわけであり、そのような状況は私たちにも同様にあり共感できる。

しかし本作は希が「無理する」ことを不幸へと突き落とすわけではない。むしろ新たな出会いや絆を紡ぐきっかけにするのだ。

加奈子との出会いが典型的である。希と加奈子はコンビニで偶然再会するのだが、中学時代のクラスメイトであり、恋人でもなければ友人でもない。見知った仲でもない。だから赤の他人のフリをしてもよかったのである。けれど希は頑張って彼女のことを思い出す。そして無理してバイト終わりに一緒に帰る。このような無理と頑張りが、希と加奈子を出会わせ、絆を紡がせる。これは二つの行為の肯定的な捉え返しだ。

さらに象徴的な場面は、二人がボウリングをして遊ぶことである。加奈子は幼少期から親に連れられて上手いのだが、希はガーターの連続で下手だ。だからここでも希は加奈子に無理矢理付き合わされている。しかしここで注目したいのは、加奈子が希に「ボウリングをしなくていい」と言わない/しないことだ。それは「頑張らなくていい」や「無理しなくていい」とは言わないということでもある。別に下手であり続けることの肯定でもない。そうではなく加奈子は希が下手である状況を「大丈夫」といい、投げ方を教えるのである。これが絆だ。無理していることから守りたいあまり頭ごなしに否定するのではなく、状況をまずは受け入れて、脱する手立てを探ろうとすること。これが適切な手の差し伸べ方であり絆だろう。
希が下手なのは、無理に力を入れて投げているからだ。だから加奈子がその力を解いていく。緩ませていく。すると希はピンを7本も倒すことに成功するのである。この時の彼女の表情は忘れられない。そして無理する状況から一歩踏み出せたからこの表情を浮かべられるのだ。
無理する状況を脱するための「緩み」。脱した後の緩んだ顔。笑顔。それはもちろん居酒屋のシーンにもある。二人が二人でいるときは無理しなくていい。頑張らなくていい。気持ちが緩んでいる。緩んでいるから本心で話ができて会話が弾む。笑顔になる。お酒を飲んで、足下がふらついても二人だから帰れる。ゆるゆる歩ける。そして加奈子の実家におじゃますることもできる。もちろん実家で二次会をする。この「緩んだ」果てで、つらい本心にも触れてしまう。涙腺が緩む。けれど二人には確かな絆が紡がれている。だから「大丈夫」といって抱き締め合える。

次の日の朝は、むなしいと思わなくてもいいのではないだろうか。加奈子のつくった朝ご飯を彼女の家族と共に食べる。会話をしながらご飯を食べれば自然と顔が緩んでいく。それは希が独りコンビニ弁当やカップ麺を食べる時とは真逆の表情だ。そして希と加奈子は「食事を共にする」といったありふれているけれど愛おしい日々の営みを通して、絆が架橋された朝を迎えるのだ。だから二人が仲良く別れを告げた後、希は橋で母に仕事を辞めたことを打ち明けられる。そこにも彼女に無理が生じている。けれど彼女は加奈子に優しい力で背中を押されているから大丈夫なのだ。そして母との緊張関係も緩んだら、独りであっても橋を渡ることができる。

本作は以上のように「無理しなくていい」とは言わない。もちろん無理がパワハラやセクハラ、または誰かの利害のためであり、心を病ますのなら積極的に離脱すべきで加害者を糾弾すべきだ。しかし生きている以上、些細なことで無理して頑張らないといけないときはある。その時、私たちには「緩み」をもたらしてくれる他者が、そしてそのような他者との絆があれば頑張れるはずだ。それは逆も然り、私たちはそのような他者にもならなければならない。
このように本作が「絆」のあり方を十全に描いていることはもちろんだが、既存の恋愛映画の文脈を意図的に逸脱していることも見逃してはならない。
希と加奈子がボウリングに行くことはデートスポットの意味を無化させ純粋な遊びの場所にしている。さらに希が泥酔後バイト仲間の男子大学生に介抱される時は「何も起こらない」。また喧嘩に絡まれ、自転車を二人乗りして逃げる時、おでんを投げて助けることも自転車を漕ぐのも希であり、従来的に言えば男女逆転の描写である。もちろん希に恋愛の可能性がないわけでもない。次のシフトが被ったバイトの日には、ケアを含んだ日常会話を通して希に男子大学生への恋愛感情が生まれもする。それも希が無理してシフトに入ったから、きっかけが生まれただろうしそういう意味でも頑張ることは大事である。

希はこのあとどうなっていくのだろう。バイトを続けるのか、転職するのか。実家には帰ったり、大学生と恋愛関係になるのだろうか。どんな方向にいっても、希が頑張ることにはなるだろう。朝がむなしく思うときだってあるはずだ。けれど彼女が紡いだ絆や出会った人たちは、彼女の頬を緩ませて幸せな朝を迎えたと思わせてもくれるはずだ。そんな朝が多く訪れますように。朝の寒さを太陽の光が和らげてくれる、そんな冬の日に思う。