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宵醒飛行
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『宵醒飛行』に投稿された感想・評価

今年初見の映画の中で最も強烈な衝撃を受けた映画。8mmの学生映画としての水準は遥かに超え、技術的には拙くとも志の高さと、まるでジャック・ロジエの名を出してしまいたくなるような自由さを兼ね備えた今作の美しさは他の映画(自主/商業を問わない)を圧倒する。わずか齢二十歳?くらいで撮った映画で、しかも早逝してしまった故、監督作はこれ一本のみとはあまりに勿体ない。最近発見されたという8mmフィルムの状態も美しく、30年以上前の自主映画とは思えぬ若々しさと現代にも全く色褪せない生命力に満ちている。

全く今後の上映の目処もなさそうなので、内容を簡単に記述すると、薬や酒に手を出しても全く酔うことのできぬ若い男2人が廃人のように昼間を過ごしつつ、眠れない夜を自由気ままに駆ける日々が繰り返される中で、偶然出会った女を交えて奇妙な3人でのアウトローな生活の日々が始まるというありきたりな題材で、それだけ聞いても個人的に惹かれる要素はまるでない上に撮影技術や俳優の演技はどれも素人レベル。しかしそのどれもが奇跡としか言いようのないバランスで絡まり合い、カメラの前と後ろ関係なしに、それぞれが緊張感を持ちつつ集中した瞬間だけを真空パックしたみたいな描き方になっていることが途轍もなく美しい。とりわけ映画終盤、黄昏時に行き場を失った3人がただ街を放浪する姿が堪らない。
出演者は学生映画ゆえに当然みんな素人でありながら、どの人物も顔が魅力的。いいキャスティングは映画に適した顔立ち(美男美女ということではない)と声の持ち主を選ぶという基本に立ち返って選びぬかれた印象があり、最近の映画で見るような俳優とは根本的に違う佇まいでカメラの前に収まってみせる。たとえばヒロインを演じた伊藤博子の年齢不詳な顔だちは際立っていて、彼女が赤い傘をさしてだだっ広い路地を奥へ独り歩くカットは映画の本編とはあまり関わりがないものの、この映画のベストショットだと本気で思う。
他にもこの映画が飛び抜けている魅力として、時間と空間の救い取り方が思い浮かぶ。最初にロジエのような自由さと言ったのはほとんどこの描写の仕方になんとなく近しさを感じたからで、例えば酔えない上に横たわる異性を前にしても接触を避けようとする若者たちの姿が描かれる今作で、ついに酔えぬまま白昼堂々万引きで束の間のスリルを味わうアクションとそれを捉える荒々しいカメラの動きが映画を押し進める一方で、ヒロインは部屋のフィックス画面で睡眠薬をひたすらに体内へ放り込むというのがクロスで描かれるという見せ方をするのだが、なんて太々しく見事な編集だろうと映画好きの一人としては感動せずにはいられない。
何よりも素人3人を捉えた画面がロジエのフィルモグラフィーや『日曜日の人々』を彷彿とさせるような演じることそのもののドキュメントとして機能していたことに驚愕。潔く終わることを徹底的に拒むかのように延々と引き伸ばされる睡眠(ラスト)が、映画の豊潤さに繋がる稀有な作品だと思う。本当にずっと終わらないで欲しかった。

今作の上映会自体は当然早大シネ研関係者が多く集まっていたが、この映画の美しさは着実に熱を持って観客を揺さぶり続けていくと確信する。上映後の鷲見監督がエキストラ出演した8mmの断片上映や監督のご両親の挨拶まで、徹底的に場を作ったことに畏敬の念を抱く。またどこかで上映があれば何が何でも駆けつけたほうがいい。
eirain
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カイエ・デュ・シネマ・ジャポン 2号(刊行1991年)掲載
特集「2001年の映画作家」 稲川方人氏寄稿文

8ミリで撮った鷲見剛一の『宵醒飛行』を最初に見たとき、僕はすぐに席を立って友人の席に走った。いいよね、すごくいいよねとパープリンに口走った。ほんとにいいんだ、この二十歳の処女作。映画の青春期が映画の終末期に突然訪れてしまったような、場違いな時代を途方に暮れるような、手にした石をどこにも投げられず、でもやる瀬ない憤懣を持て余すような、そんな感じ。神代辰巳であり、若松孝二であり、新宿で遊んで、夜明けに帰っていく七一、二年の中央沿線、阿佐ヶ谷、高円寺のあの感じ。全共闘世代などと噓っ八な名前で呼ばれてホンワカしている団塊の世代のアホが、ジャームッシュだ、村上春樹だとコマーシャルしている間に、すっかりお株を奪われてしまったわけよ。気持ちがいいものだ。東京湾岸あたりで、買ってきた花火を手にして気だるそうに走り、そこにレピッシュの「イージンサン」が流れて。南新宿の小田急の踏切りで、わけの分からない空虚に呆然と立ち止まってしまうロングショットや、高円寺の駅前の噴水で、三輪車を乗り回して、そして水に入ってふざける夜のシーン。中野の駅に停まっている総武線の車両をブレた手持ちカメラが走り抜け、あるいは、東西線の中で、「今日はおれの部屋に泊まるか」とぼんやり言う、そんな荒い粒子のシーンのひとつひとつが胸を刺すように懐かしく、だが一瞬たりとも退行的な精神に屈することなく、悪意と悲しすぎる優しさとで、ふたりの男とひとりの女という物語のルーティンを、それがどうしたというふうに、かまわず撮り切ってしまう。死んだように眠ってしまった女の子を背負い、雑踏の中、浅草花屋敷までスローモーションでたどりつく眼の醒めるような最後のシーン、そこに流れるストーンズの「コックサッカー・ブルース」。そして観覧車のまばゆい光をいつまでも見つめて。そう、それから、赤い傘をさした女の子が口ずさむ平山三紀の「真夏の出来事」。『宵醒飛行』は、浅田彰が登場し、高橋源一郎がスターとなり、「スイッチ」が読まれるよりはるか以前に新しかった映画、そして誰も新しくなくなった九十年代に、誰よりも新しくなった映画なのだ。