このレビューはネタバレを含みます
凄いものを観た。
原作がそもそもそうなんだろうけど、野心的。
曖昧模糊とした人の心(頭)の中に沈み込んでいくような作品。ある意味スケールが大きい。横に広いというより奥に深い。
役者が有名でなかったらもっと大きな効果を生み出したかもしれないけど、だからといって配役がズレていたわけではない。リリー・フランキーは料理を美味くするスパイスのように効いていたし、永山瑛太はその存在感からしてもう混乱している。
中でも井浦新の素晴らしさよ。この人どんな服も着こなせるのな。薪で火を起こしながら自分のオーラは消火していく。最後のバス停のシーンなんて誰よ笑
これはコミュ障じゃないと作れない映画だと思ったし、コミュ障じゃない人なんていないよ、と言われてるようでもある。ていうかコミュニケーションって嘘つくことじゃね?みたいな。いろんな解釈が押し寄せる。
嘘についての真実をフィクションである映画で見せつける粋。
もうわけわからん人間の行動を散々見せつけられたからなのか、夕食で堀が号泣したあとのかなえの対応は優しさ?を感じた。
何年か前はたしか「今泉映画は主人公が成長しない」と言われていて、監督自身もそれでいいんだと仰っていたはずですが、今回かなえはちゃんと成長してました。
言葉は嘘をつく。行動は嘘をつかない。
やはりこの言葉は嘘についての真実を表している気がします。
映画で答えを出さない。
混乱の中に置き去りにする。
でもそれが実社会だから、そこに嘘はつけない。フィクションであるからこそ。
例えば私たちが、映画の中で生きているかなえや、堀や、悟だったとして、映画を見た観客よりもかなえを、堀を、悟を、理解できますか?