肉袋

さらば、わが愛/覇王別姫 4Kの肉袋のレビュー・感想・評価

5.0
劇場視聴歴2023/8/7、14、18、19(35mm版&4k)、26、9/3、22、26、30、10/7、15、21、11/24、26、2/4
映画館でこれほど同じ映画を繰り返して観ることは金輪際ない!配信でも円盤でも繰り返し観ていても、何度でも映画館で観る価値がある。
この作品が映し出す圧倒的な愛の美と醜さは私の貧しい語彙と表現力を遥かに凌駕する、まさに例えようのない傑作であり、言語化のため言葉を尽くしたところレビューが2万字になっちゃったよ〜😭💦

この作品ではレスリーチャンの演技が震えるほど素晴らしく、彼の美貌が最も良い使われ方をしている。
指先、嫉妬に燃えた目つき、恐怖と困惑に震える頬と目線の揺らぎ、自分に縋りにきた恋敵の目の前でいかにも高飛車に外套を脱ぎ捨ててみせる様、動き全てが美しい。京劇の女形(旦)は指先の仕草をとても厳しく叩き込まれるというが、その通りに指の動きひとつが大変に美しいのだ。レスリーは役作りとして「女性」ではなく「旦の仕草や精神が染みついている女形役者」を徹底している。舞台下における京劇役者の独特の仕草を時間をかけて研究したとのことで、女形の精神性や立ち振る舞いの理解が凄まじい。またインタビューによると、性別と性的指向に関するアイデンティティを確立する前から女と厳しく叩き込まれてきた女形が自然と抱く相手方への特別な感情というのは、現代の同性愛とはまた異なるものであり、さらに時代背景からそれらの口には出せない感情を全身の仕草や雰囲気で表現しなくてはならないという話が監督との間でなされそのように演じたのだそうだ。監督にせよレスリーチャンにせよ、これが1993年に得られる解像度だろうか?
京劇の世界だけで生きてきた女形・蝶衣には社会性がまるでない。蝶衣は現実社会で生きるには不器用すぎる「夢見る姫君」的内面を持つため、舞台を降りると控えめな仕草で儚げに佇んでいる。その戸惑いを含んだしおらしい所作や浮世離れした繊細な雰囲気が本物のお姫様のように見えてくる。一方で京劇の世界だけで生きるがゆえに、舞台絡み(=小楼絡み)となればプライド丸出し、誇り高い高貴な姫に変貌する。蝶衣は口数が少ない人物で、ともすれば"無口でよく分からない人"になってしまうのだが、レスリーの仕草や表情、眼差しは蝶衣の心の機微や気高さや性質を完璧に表現しており、蝶衣という人物に生命が吹き込まれている。
そして、人外めいた妖艶さも魅力の一つだ。猫に阿片の煙を吸わせるシーンや袁四爺と戯れるシーンで幕の向こうのレスリーは全く露出してないのに、見てはいけないものかのように扇情的に見える。公開時の中国本国では同性愛に刑罰が課されていた。表現が規制されている中で、彼の細やかな演技が行間を生み出しこの作品を支えているのだろう。
さらに特筆すべきはラストシーンの微笑で、レスリーは台詞なしに3時間の壮大な物語の終幕を完成させている。蝶衣は非常に悲惨な人生を歩んだキャラクターで、自刎によって幕を閉じた人生は最期まで救いようがない悲劇のはずであるのに、最期の微笑みがあまりに美しくまた説得力に満ちており、自死の選択が絶対的に正しかったと思わせる。まさしく永遠の春の微笑みを持つ蝶衣の最期。

脇を固めるコン・リーも妓楼のオーナーや蝶衣を小馬鹿にするように笑う強かで美しい顔から、蝶衣に「母に捨てられた子供」の姿を見て以降の当惑混じりの表情、愛の喪失と絶望、憐憫、全ての感情が込められた最後の大写し。劇中の数十年の中で移ろう心の機微を繊細に表現している。コンリーは基本スペックが高いためどの作品を観ても演技に違和感を覚えることは殆どない。今作も非常に高いレベルでレスリーチャンと作品を支えている。
蝶衣の子供時代の2人の子役も印象に残る。彼らは眼で訴える力が強いのだ。気高さと強さを湛える童年の眼差しから、気高さゆえ女になることを拒絶しようとする少年の瞳。彼らのビジュアルも麗しい。
またレスリーのほとんどの台詞が北京語話者の俳優により吹替されているようだが、こちらもレスリーの演技を全く損なっていない素晴らしい出来栄えだ。

そしてこのように優れた演者たちが輝くのは相応しい脚本、演出があってこそだ。
不瘋魔不成活と言われる過酷な役者の道を歩む蝶衣が狂わずに生きられないのは、この言葉の通り芸術人として道を全うするためだけでなく、相手役への遂げられない思慕があるからだ。過酷な道でも自らを曲げることなく芸術に生きようとする者の受難に切実な愛の苦痛を絡め、壮大な中国動乱の歴史に飲まれる人間の美と醜さを抗えぬ運命として描ききる手腕は凄まじい。
この映画には「人は皆自らの運命に責任を持たねばならない。運命を受け入れろ。」という象徴的なセリフがあり、非情なほど丁寧にこのルールに沿って物語が進行する。因果が巡るかのごとくセリフやシーンが反復され、特定の小道具が何度も登場する。
歴史のうねりの中、最後の一瞬に至るまで蝶衣のことを理解することができなかった小楼、舞台の上の虞姫に終止符を打つ蝶衣、炎の向こうで愛を失った菊仙、行き着いた先、全ての悲劇が抗いようがない宿命なのか?あるいはそれが運命に責任を持つということなのか?それぞれの愛の喪失に胸を打たれる。

また監督のトラウマが作品の奥で燃えているのを感じる場面も多い。
人と生まれた者はみな芝居を楽しむ。豚や犬が芝居を見るか?京劇を観ないものはけだものだ。
多少なりとも古典の知識があるものであれば誰でも知っている。民族の伝統と尊厳を守るのは誰であるか、それを諸君らに問いたい!
イデオロギー闘争を原因とするのちの表現統制で古くからの伝統芸や脚本は多く失われ、更に文化大革命で行われた作家や俳優への弾劾は彼らの命とともに彼らが守ってきた民族の伝統と尊厳を二度と戻らないものにしてしまった。この映画には芸術文化への礼賛とともに、それらの破壊に対する怒りと、かつて破壊に加担した監督自身の悔恨が込められているかのようだ。

この作品の初めての鑑賞のあとは自分が手に入れた上質な感情を言語化することさえ惜しく思えるが、そもそも言語化しようとしたとてこの映画から得られる思いを同等の言葉に代えられる人はどれだけいるのだろう。
この映画は全編にわたりセリフで思惑が説明されることはない。キャラクターの表情や仕草で多くのメッセージを伝えられるため、受け取り手としてもそれを安易に言語化することができない。
さらに、彼らの表情からは各人の矛盾した関係性や思いが垣間見え、明確な正しさも誤りも存在しない。そのために私たちは感情の置き場を見つけられないのだ。
美貌の主人公が傷つけられ誇りを失っていく、泣きたくなるような悲劇の連続。そうであるのにラストシーンで死を選ぶ蝶衣は最高の幸福の中にある。
菊仙は小憎らしい恋敵というだけでなく、涙ながらに蝶衣を抱きしめた慈悲を持つ強く賢い女性でもある。
小楼は蝶衣の愛を受け止めず憎らしく思えるが、最後に何も残らぬ現実に1人取りこのされる彼の姿に胸がすくことはないのだ。
人間と、その営みの複雑さを一つの言葉で形容することはできず、言葉にできないために発散を許してもらえない。
作り込まれた脚本と演出、高い演技力を持った美貌の役者の最高の当たり役という奇跡が揃わなくては映画でこれほどの傑作は生まれないのか。
このような珠玉の一本と出会うために、私はいままでの人生で映画を観て、本を読んで、舞台を鑑賞してきたのではないだろうか。

▪️使用されている京劇について
陳凱歌のトラウマと文化破壊への嫌悪が渦巻いているようにも思える今作、使用される小道具やセリフはとても丁寧に選ばれている。
作中で展開される劇中劇の演目もまた、展開と通じるところが多く小道具同様ストーリーに合わせて選定されたものだと思われる。
貴妃酔酒は京劇立女形(青衣)の最も有名な作品であり、牡丹亭も崑曲の代表作品の一つであるため、一見すれば青衣の主要作品をいくつか選んでいるだけだとも思えるが、青衣の有名作品は決して少ないわけではなく、他の演目を選ぼうと思えば白蛇伝や玉堂春など如何様にも選ぶことができ実際に原作ではいくつか他の演目も登場する。その中で強いて選ばれている劇中劇には、劇中の出来事との繋がりを感じずにいられない。
使用されているものは以下である。
貴妃酔酒)愛する皇帝と酒宴の約束を交わしていたはずが、百花亭に着くと玄宗帝が別の寵妃のもとへ向かってしまったことを聞かされる楊貴妃。約束をすっぽかされてしまったため、貴妃は嘆きながらやけ酒を飲み、酔って高力士らと戯れ唱う。
→宝剣の約束を忘れた小楼は菊仙のもとへ行ってしまう。袁四爺のもとで酔って唱い、戯れる蝶衣。
牡丹亭)現実で自由に恋愛ができず、夢の中で恋をした相手を忘れられずとうとう患い死んでしまう杜麗娘
→舞台という虚像(蝶衣にとっての夢)でしか恋することができない蝶衣。現実の蝶衣は愛に身を焦がしたまま死んでしまう。
牡丹亭・遊園)「紅紫艶やかに、絢爛と咲き誇る花々に注ぐ日差し。世は移ろえど決して変わらぬ悠久の自然に対し、枯れた井戸、荒廃した垣の庭園で美を愛でる者はもはやいない。」
→どれほどに取り巻く環境、観衆が変われど、蝶衣が貫く美と芸術は変わらない。しかし時代の変遷とともに、芸と美を理解し愛する者はいなくなる。
なお文革の吊し上げの場で暴露を始める蝶衣の「揭發姹紫嫣红、揭發断井頹垣」は遊園の引用。言葉遊びに近いため日本語訳では「なぜ日本の将校の前で牡丹亭を歌ったと思う?」、英訳では「美しい貌に隠された醜悪な姿を暴こう」とされており翻訳には難解な台詞となっている。
紅灯記)自分の出自を聞かされて驚き、党の任務遂行を誓う鉄梅(=出自により定められた運命に従う)※菊仙の縊死の場面でラジオから流れる現代京劇の演目
→自らの出自を暴かれて縊死する菊仙=出自に抗えず、運命に飲まれる

▪️中国古典からの引用
上記「遊園」の引用以外にもセリフなどで古典等の引用がなされる箇所がいくつかある。
金瓶梅)
遊郭での一夜があけ、楽屋で隈取をする小楼が昨夜の出来事を西門慶と武松に例え、蝶衣が兄さんにとっての藩金蓮がいるのか?と返す。弾劾の場で蝶衣が菊仙が元娼婦であることを暴露するときも、蝶衣は彼女を藩金連と罵倒する。
紅楼夢)
「ヒロインは手紙を焼くものです」は紅楼夢のヒロイン、林黛玉が手紙を燃やすシーンから。
扇を見せ那さんがそれを破いてしまうのも、紅楼夢に登場する女中・晴雯が扇を破いてしまうシーンを引用している。

▪️タイトルについて
原題は覇王別姫だが、英題ではFarewell (to) my concubine、邦題でさらば、わが愛と題されている。
英題は"京劇の覇王別姫"の英訳なのでストレートなタイトルだが、覇王が主体となった愛への別れのみでは映画の主題としては不足して、愛妾というニュアンスもやや本来の役割と異なるように思える。
対して邦題は、強いて"わが愛姫"などに限定しなかったことで多重解釈の余地が生まれている。
一見すれば映画の別れの主体は主人公の蝶衣のようだが、この作品で失われた愛は一つではなかった。
蝶衣の自刎は小楼だけでなく愛する京劇への別れでもあるし、蝶衣の死により小楼の方も自分が受けてきた愛を失った。小楼が受けてきた愛を喪失したのは菊仙を失ったことでも同様だ。反転して、菊仙の方もまた小樓への愛に別れを告げたということであるし、蝶衣に向けられた菊仙の慈愛も失われたことになる。様々な形の愛の喪失があるのだ。

▪️幕落
「1990年、北京では京劇の北京入城200周年を記念して祝賀公演が行われた」
この文言はどのような意味で付けられているのだろうか。
いかなる破壊にあおうと、文化は滅びず脈々と受け継がれ再び蘇るという礼賛だろうか?
この物語で描かれた京劇および京劇役者の弾劾があたかもなかったものかのように1990年時点では賞賛を受けている、その事実に対する冷めた目線も感じないだろうか。まるで冒頭で体育館の管理人が「今は良くなった。」と言い切る姿に答え淀む役者たちの姿のように。
さらに言えばこの作品を通して翻弄される文化と民衆の身勝手な態度を見たうえでは、1990年時点での祝賀公演という賞賛は、清朝末期の京劇が人気だった時代の繰り返しのようであり、今後不謹慎と咎められる時代、売国奴として裁判にかけられる時代、弾圧され死の淵に立たされる時代もまた繰り返され得るという懸念さえ感じる。
実際に、現在の中国情勢は明るいものとはいえない。民主化への激しい弾圧、監視社会、言論統制は文革の再来とさえ揶揄されており、凄惨な歴史の繰り返しを想起させる。

▪️栄枯盛衰
覇王別姫は、かつて国を覆うほどの気力と栄華を誇った項羽が一馬と愛姫を残し全てを失い、追い詰められた末に愛姫は自刎、残された項羽も1人果てる…という悲劇の物語だ。
この作品は基本的に全てその準えとなっている。
小楼(覇王)は虞姫(菊仙、蝶衣)を自殺により失い1人になる。この大筋は勿論京劇・覇王別姫そのものだが、各キャラクターや時の権力者を見てもそのほとんどが盛者必衰の理に則り破滅までが描かれる。
小楼、蝶衣は演劇界のトップスターから、逮捕と徹底的な排斥を経験した。菊仙は蝶衣を出し抜いて小楼の愛を獲得したが、その愛を最後には失ってしまう。
時の権力者を見ると、小豆子と小石頭を豪奢な自宅に招き小豆子を手籠にした張翁は、見窄らしいタバコ売りとして2人の前に再来。日本将校の青木は日本の敗北に伴い射殺される。幼少期の小豆子と小石頭を絶対的に支配した師匠も劇中で死を迎え、彼の城は解体されてしまう。長らく貴人、文化人、権力者であった袁世卿も共産主義革命勢力に処刑されたが、その共産主義勢力に迎合し支配側に立った小四の方も大きなしっぺ返しによって追い落とされ破滅することになる。

▪️蝶衣の自我、内面
蝶衣が男と女、舞台と現実を混同し続けずに生きられなかったのは、周囲からの強要や性的虐待の受難という外的な要因と、芸術至上主義者としての芸の求道と小楼への慕情という内的な要因がある。
本来、蝶衣は男性で女性になりたいという願望は持っていない。童年の蝶衣は強く気高い。母親に捨てられた子どもが泣くどころか、啖呵を切るように唯一手元に残された母親の外套を燃やし、助けようとした石頭を拒絶する。少女のような見た目に反し見据える瞳に宿る意思の強さたるや。ところが蝶衣と名乗るころには、たおやかで頼りなげな佇まいに変わり、瞳は儚く、遠くを見つめている。成年になるまでに後天的に女性的な内面を獲得し、アンビバレントで不安定な精神性になっていることがわかる。
蝶衣は嫌が応にも自らを女たらしめようとする廓育ちの出自(遊郭で捨てられないため周囲に性別を偽って育てられたと思われる)であり、断指という去勢の儀式を経て養成所に入門する。過酷な舞台稽古の中で「女として産まれ…」と唱うよう強制され、愛しい男からも自分を女だと思え、と言われたあげく、その男の手で女の自我を獲得する瞬間まで描かれている(煙管で掻き回されて血を流す、という描写は非常に暗喩に満ちているようだ)。最終的に小豆子は虞姫(女性)の姿で性的な虐待を受け、子どもを授かる(拾児)。蝶衣に「女性性」を強制した外的な要因がこれらだ。
内的な要因として、逃げ出した先で出会ってしまった「覇王」に芸の美しさを見た小豆子の、芸術に生きるという決意がある。これにより小豆子は「不瘋魔不成活」の宿命を得るが、もともと小豆子は舞台を舞台と割り切ることができない人間であり自らを女と唱うことができなかった。そんな小豆子が女形の芸を極めようとすれば現実と舞台、男と女の別について「狂わずに生きられない」ようになる。
そして、小楼への思慕。時代背景から言って女が男、男が女を愛すのが"正しい"という誤った価値観も残っている。その中では性的指向と性選択を切り離すことができないし、たとえそうでなくとも異性愛者の小楼とは女性でなければ恋愛関係になれなかった。蝶衣は舞台の上では覇王の愛する女、虞姫であり、舞台こそが恋慕う相手と結ばれる唯一の場であったということが、彼のアイデンティティを揺るがし、男女、現実と舞台の無分化へ向かわせる。

▪️ 小楼への思慕と不瘋魔不成活
上記の流れを振り返れば、蝶衣は芸術と小楼への愛を起点に女性性の獲得や現実と舞台の混同に向かっており、小楼への愛は倒錯の結果として生じたものではなくむしろ始まりに存在していることがわかる。
すなわち、「不瘋魔不成活」とされる芸術至上主義的側面、兄への愛は、蝶衣にとっての根幹であり全てだ。そして、芸に身を捧げるということと小楼への思慕は蝶衣の中で「覇王別姫」によって固く結びつけられている。蝶衣の願いは一生小楼の隣で歌い続けることであり、一生歌い続けることのみでも、小楼とともに生きることのみでも足りない。
しかし、芸術至上主義の獲得経緯をみると、実は蝶衣の"一輩子"の望みは、王先生の覇王の観劇の時点から既に叶わない望みであった。
「不瘋魔不成活」は、小豆子が小癩とともに王先生の覇王を観て演劇(芸術)に魅了されたことが始まりであるが、このとき王先生の舞台を一緒に観た逃避行の相手が小癩であり石頭ではないということが脚本の妙である。
涙を流して芸の道への献身を決意した小豆子と、どんなに殴られても彼のようになりたいと泣いたにも関わらず自殺してしまった小癩との分かれ目は、芸術の価値を何に見出したかという点にあり、視点に明確な断絶がある。小癩は物質的な満足(有名になってサンザシを毎日食べる)を求めており、舞台に感涙しながらも「どれだけ殴られたか」という物理的な苦痛を想起し、物理的な苦痛から逃避するために自殺を選ぶ。小豆子は芸の美そのものに心を奪われていて、芸術を探求した先の物質的な満足やこのときの覇王の領域に到達するまでの現実的な苦痛などは全く見えていない。小豆子が演劇を観ながらトイレに向かわず垂れ流したのも、身体的(物理的)不自由や制約、常識的な選択を無視して芸術を選べる人間になったということを表している(なぜか邦訳だけ涙だらけ、と訳し直されており謎だが「你怎麼尿我一臉呀你」の通り小癩の顔にかかったものは小豆子の尿)。観劇の前までは石頭を愛していても彼を捨てて女性性を強要する世界から逃げ出すことができているのに、観劇以降の成年の蝶衣はどれほど悲惨な目に遭おうと兄を想い続けることを決して止めず最終的に自刎にまで至る。明らかに観劇によって小豆子は変化している。
ところがこの場に不在となる石頭は王先生の舞台を見なかったことで、小豆子と同じように芸に生きる決意を得ることはできず、また小豆子を理解する機会も決定的に逸することになった。芸術に向き合うスタンス、歩むべき人生がこの時点から別れてしまったのだ。
小豆子は石頭を捨てて稽古場(京劇)から逃げたにも関わらず、結局は京劇に魅了されたうえ、石頭の側に戻る。これこそが逆らえぬ運命ということなのかもしれない。そして同じくこのときに石頭との越えられぬ隔たりも得ることになったという悲劇もまた運命か、あるいは罪と罰だろうか。

▪️蝶衣の孤独
また遊女の母親に物心ついてから捨てられたことは蝶衣の内面に大きく影響している。
蝶衣が小楼を愛することの裏側には、得られなかった無償の愛の幻影を求める蝶衣の欲望が垣間見える。阿片に溺れる中、20年も前に消えた母親に届かない手紙を書くほど母親を求め、他方で自分を捨てた母親を憎む相反した感情に苦しむ。
母親と同じく遊女だった菊仙が、苦しむ蝶衣を抱きしめたとき、外套を肩にかけたとき、渇望した母の愛を得られたかもしれないのに、生来の気高さと恋敵という関係性、小樓への愛ゆえ蝶衣が菊仙の愛を拒絶したのはこの後の展開へ繋がる点も踏まえ劇中最大の悲劇ともいえる。
※日本語字幕では宴席の場の「ありがとう菊仙」に対し、小四に虞姫を奪われた場の「ありがとう姉さん」にかなり含みを持たせているが、中文だと宴席でも舞台から降ろされた場でも徹底して「多謝,菊仙小姐」("miss"菊仙、菊仙さん)とまっすぐに目を見つめるだけで、かけられた憐憫とともに外套を捨て去ってしまう。子を喪ったあと、母を求める蝶衣に慈愛を向け始めた菊仙に対して、蝶衣は徹底的にそれを受け入れないスタンスであるようだ。邦訳の「ありがとう姉さん」はとても有意的で、兄弟子の奥方(姉さん)として受け入れたニュアンスを帯びるため重大な相違点となってしまっている。

▪️消費される立場としての女性性
蝶衣が纏う女性らしさはその美貌や憂いを帯びたたおやかな仕草という外形からくるものだけではない。「消費される立場」という負の側面が蝶衣の女性性を構成する一つの要素となっている。
蝶衣はその出自から、遊郭での母親の"仕事"を見慣れており、男女の性的な関係に嫌悪感を持っている(この蝶衣の人物設定は陳凱歌のインタビューに記述がある)。
劇中、小楼が「遊郭に行って遊べばわかる。楽しいぞ」と語るシーンで蝶衣はそれを拒絶して怒りを露わに席を立ってしまう。人物設定を踏まえると、愛する師兄が女遊びをしていることに嫉妬や怒りを感じているだけではなく、遊郭という男と女が身体を結ぶ場への嫌悪をも感じさせる。
遊郭というものは基本的に男性が女性の身体を消費する場である。蝶衣はそこに立つことができず、消費する側にはなり得ないということだ。
反対に蝶衣は少年時代権力者からの性的虐待を受け、パトロンへの身売りを受け入れざるを得なくなり、消費される対象でありつづける。
ゆえに蝶衣は表層に留まらない部分で「女性」であり、物語終盤でのシスターフッドさえ感じさせる菊仙との奇妙な連帯には、消費される「女性」たちの身の寄せ合いが根底にある。

▪️袁四爺
上述したが蝶衣は母の愛を喪失した分代替となる無償の愛を潜在的に求めており、それを与えてくれたのが身を挺して庇ってくれた幼少期の小楼であったことが、彼を愛する理由のひとつである。蝶衣が劇中で他に愛を獲得できた瞬間があったのか、袁四爺について考えてみると、彼は単に男であり女であり人戯無分の蝶衣を芸術品として愛でる耽美趣味の人間で、蝶衣の芸術性を理解し高く評価する人物ではあれど蝶衣の内面や本質に関心を持ち合わせていない。2人が話すのは鏡越しか、隈取りという仮面を被っているか、あるいは背後から語りかけているか、なんであれ正面に立って向き合う瞬間が少ない。
蝶衣は初対面の際、袁四爺の放つ微妙な空気感を察し、1人で袁宅に向かうのは避けている。(このとき、那さんが髪飾りのお礼に蝶衣は何をすればよいでしょう?というのは、かつて察しが悪いじゃないかと言って小豆子を張翁に引き渡したときと同様の圧力が滲んでいる。若衆歌舞伎などの歴史を見ても役者や芸術家がパトロンに身売りせざるを得なかったのは非道にもありがちな流れといえた。)
小楼が菊仙と去ってしまったことで蝶衣は1人で袁邸に向かうが、この場でも蝶衣はねっとりと張り付く袁四爺に戸惑い拒絶する素振りを見せる。
映画内では蝶衣の感情を読み取り難いが、原作小説を参考にすると、初対面で髪飾りを贈られる際、そして袁邸に向かう際いずれも蝶衣は袁四郎から"求められていること"を感じ取りながらもそれを断る選択肢を持ち得ないと認識しているように描かれている。さらに原作では何が起こるか半ば知りながら袁邸に向かうのは菊仙と消えた小楼に対する当てつけの自傷行為という側面もあったようだ。
結局、映画内でも剣を手に入れるために望まない手段をとった蝶衣だが、小樓が結婚してからは捨て鉢になり袁四爺を逃避先にしているふしもある。2人はひたすらに相互利用関係でしかなく、蝶衣は本質的な救いを得られず結局は阿片に逃避先を移す。
そのようなドライな関係性であるから、蝶衣が逮捕されたときに袁四爺は蝶衣を助けようとしなかった。袁四爺は明言はされていないが袁世凱の四男を匂わせる人物で、中華民国に所縁を持つ。裁判の場面で「恩義ある我が政府」と述べる通り、彼にとっては消費の対象に過ぎない「戯子」よりも民国政府との繋がりの方が大事なのだ。
グォヨウのチャーミングな魅力によってか、あるいは男性の男性に対する性的な目線の描写を抑えたためか、原作の袁四爺のイメージと比べ映画版の袁四爺は優しいお金持ちガチ恋おじさんのように見える。しかしそのように見えてもあくまでも袁四郎はパトロンに過ぎず、蝶衣と恋愛関係にあるわけではない。どれほど他者に愛されても愛する人から愛されていない…というのではなく、蝶衣は消費されず対等に愛される機会には恵まれていないのである。

▪️宝剣
小楼が小豆子を妃に据えるためのアイテム、宝剣。冒頭で体育館に入場する2人が携える剣の飾り紐は半分黒く焦げている。小楼が火にくべ、菊仙がそれを救った過去の傷痕がこのシーンにも。
この剣を初めて見つけたとき、「こんな剣があれば覇王は漢王を殺して、お前を妃に据えたのに」という小石頭に対して、邦訳では小豆子が「じゃ兄さんが持って」と軽い感じで応えるが
中文では「師哥,我準送你這把劍!」
「兄さん、僕がきっとこの剣を贈るから」とされている。小豆子は兄の妃になることを誓ったのだ。
蝶衣はこの剣を探すために廃墟になった張翁邸に何度も足を運び、最終的には身を売る形で剣を手に入れその約束を果たした。宝剣を見せることで少年時代のやりとりを思い出してもらうということではなく、兄に誓った婚礼の約束を果たすために剣を贈っているのであり、小楼が剣のことを忘れていた罪深さがより深まる。
そしてこの宝剣について小石頭は、持っていれば漢王に勝ち、小豆子(虞姫)を妃に据えられたはずだと言っていたが、ラストシーンではこの宝剣を覇王が携えていたにも関わらずこの宝剣によって蝶衣(虞姫)が命を絶つ。
結局のところ、「どのように演じても虞姫は死ぬ運命なのです」。宝剣があろうと、覇王が漢王に勝つことはなく虞姫は自刎する。「いかなる英雄といえど定められた運命に逆らうことはできない」という言葉をさらに強調する結果となっている。運命はこの物語の絶対的なルールとして存在する。

▪️小楼の人となりについて
小楼は原作とはイメージが異なっており、なぜこいつを取り合うのかわからない、惚れる理由がないなど酷評されているのも見かける。この点レスリーチャンも小樓については役の解釈を誤っており、チャンホンイーと再共演したくないとインタビューで非難している(公開時パンフレットでのレスリーチャンのインタビュー)。
この映画での青年期の小楼はひたすらにマッチョなキャラクターで、蝶衣の愛を演劇と現実の倒錯によるものと捉えているらしく、しばしば弟を冷たくあしらっている。これは映画版独自の描かれ方である。原作版では小楼には蝶衣の想いを悟りながらも応えられないという自覚があり、それでも小楼は大切な弟として蝶衣を守ろうとする気概と優しさを持っている。文革のシーンでも、菊仙を愛していない、縁を切る、というのは弾圧の対象となった自分との繋がりを絶たせて菊仙を守ろうと意図しての言葉で、軽薄な裏切りと言うわけではない。
映画版でも少年期は原作に近い兄貴分らしさや優しさがあった。小豆子を特に目をかけて庇い、自分の元を去ろうとしたときには涙を流していたこの少年期を考えれば、小楼も蝶衣になんらかの特別な想いがあったはずであるのに、少年時代との連続性が感じられない。蝶衣の方は少年時代の経験が精神性の確立に大きく作用しているので、比べると小楼は記憶喪失を疑うほど底が浅く見えてしまう。原作のように性格は一貫させた上で蝶衣に別の形での愛情を示すか、物語のルールに沿った潜在的な繋がり(運命)の影響を受けている一面を感じさせる方が妥当とも思える。
とはいえ、鈍感で小物の小樓像にもある種の納得感もまたある(そもそもどれほど酷い仕打ちにあおうが「蝶衣を女にした運命の相手」を蝶衣が見限るということ自体ありえないがそれはさておき)。
不完全な人間を愛し振り回されてしまうというのは、非常にリアルな恋愛のありようであり、その不条理こそが愛の本質だからだ。
どのような性格であれ長所と短所は表裏一体のものであって、大袈裟なヒーローめいた男らしい人であれば、私生活がだらしないだとか、アホで考えなしに傷つけてくるだとか、なにかとしょうもないマイナス面の男らしさも有するものだ。それでも男らしさに救われ惚れてしまえばいくら短所を見ても嫌いにはなりきれない。小楼はまさにヒーロー的に蝶衣と菊仙を救うその一方で、舞台を降りると遊郭に通い賭博にあけくれるような実に"しょうもない"男だ。
蝶衣にすげなくしておきながら、袁四爺と関係していたことを「こいつは…俺を裏切って…!」という口ぶりで暴露する場面は、自分は雑に扱う一方で他の人と恋愛するのは許せないとでもいうようなしょうもなさも滲んでおり、まさしく「勝手な男と恋愛したときの感じ」に見える。
小楼は覇王(特に蝶衣の虞姫の覇王)としては役者不足でありつつも、蝶衣がそんな小楼を見限れないのは、とても現実味のある作りなのだ。陳凱歌もこの点は「愛とは不合理な一面があるもので、他の誰にも理解できない理由で誰かを愛することがあるものだ。それゆえに愛の前では誰もが平等になり得る。」というコメントをしている。蝶衣は美しく稀代の女形の才能を持って生まれたが、それでも不合理な愛に翻弄され身を焦がす。この不条理が愛の本質ということである。
そして、チャンホンイーの役作りが実際に失敗していたかというと、そうとも言い切れない。香港では1991年に同性愛が非刑罰化されたものの本作はなお同性愛が刑事罰の対象であった大陸の資本も含んでおり、当然大陸の検閲をクリアする必要があった。文化的なタブー意識も当然強く残っている。小楼の人物像はそうした制約を受ける中で演出としてできる最大限だった可能性も大いにあるだろう。役者個人の力量の問題というよりも制作サイドとしてもあえて「同性愛」許容表現を積極的に描くのを避けているふしがあるのだ。シナリオの時点で原作小説よりも小楼が冷たく、より小物らしく感じられるし、なにより菊仙の存在感が原作より遥かに増しているのは同性愛の直接的な表現を避けるためでもある。劇中袁四爺から口付けを受けるシーンではかなり不自然な画角がとられており、後年「ブエノスアイレス」が成した真っ直ぐに愛し合う2人の男性の描写と比べ、あまりにも硬く不自然なことが惜しく思われる。チャンホンイー個人の解釈の誤りのみには集約できない背景事情が窺えるだろう。
それにしてもチャンホンイーはモト冬樹に似すぎていて気が散る。

▪️小楼の悲劇
小楼は上述のとおり極めて男性的なキャラクターだ。
ガサツでふざけているようだが小豆子をいじめや折檻から庇うし、大袈裟な台詞回しで遊女の菊仙を救い出す様はさながら助六である。若き小楼はがさつで短気、大味ながらも曲がったことは許せず粋、という江戸歌舞伎におけるヒーロー像にも見える立役者らしい性質だ。
ところが舞台を降りてからは、今度はいかにも男性らしい欠点が目立ってくる。自堕落で働かず、賭博に走り、おだてられれば簡単にお金を出してしまう。(このあたりもしばしば歌舞伎や落語で使われるダメ旦那に似ている。古今東西いるのだなあ…)
そして舞台にいても舞台を降りても、小楼は共通して呆れるほど鈍感である。この鈍感さはヒーローである間はかえっていけずな魅力や男振りにもなるが、ひとたびヒーローでいられなくなったときにはその鈍感さが致命的に人間関係を破壊する。
小楼が明確にヒーローでなくなった瞬間は「石頭でなくなった瞬間」として描かれている。石頭ではなくなるというのはすなわち、身を挺して弟を庇っていた少年、小石頭との決別でもある。
レンガを額で割れなくなった彼は、もう稽古場の師匠の剣を額で受けられないし、遊郭の酒器を割ることもできない。弱くなり、ただの男に成り下がった小楼は蝶衣を庇って兵隊と闘うことをやめた。
小楼はその鈍感さゆえに、蝶衣の演劇への愛も小楼への愛も菊仙が夢に見た不安も本質的に理解していない。そのため蝶衣と菊仙が人生全てを賭けてきた愛を踏み躙り、破壊しきってしまう。鈍感さの招いた悲劇だ。かつてヒーローであり演劇界のトップスターだっただけにあまりに惨めで哀しく、その姿は覇王の最期、力抜山兮気蓋世、時不利兮騅不逝との重なりを感じさせる。
小楼は鈍感さのために、ラストシーンに至るまでなぜ蝶衣が舞台と現実を混同して生きざるを得なかったか想像もできなかったのだが、蝶衣の自刎を目の当たりにしたとき彼は初めて蝶衣の心を理解する。虞姫の姿であるにも関わらず蝶衣を「小豆子」とポツリと呼び微笑むのは、最期の瞬間能動的に虞姫を体現した蝶衣が男の身(小豆子)で小楼を愛し続けその愛を完遂したこと、芸術至上主義者だった蝶衣が虞姫という芸の極地に至ったのを理解したからではないだろうか。小楼は蝶衣が自刎して初めてこれまで受けてきた愛が劇と現実の倒錯ではなかったことを悟るが、その瞬間にその愛を喪失するというこれ以上ない悲劇に直面する。

▪️菊仙と蝶衣
蝶衣は舞台上の美しい夢を現実化させることはできず、小楼と現実世界で結ばれることができないため、菊仙に激しく嫉妬するが、他方菊仙もことあるごとに、自分が決して入れない演劇の世界の2人の絆に憔悴させられた。
露骨な同性愛表現を避けつつ映画全体のバランスをとるために配置されたキャラクターというだけあり、蝶衣との対立、対比が分かりやすい。菊仙は現実で力強く賢く生き生きと描かれ、小楼が囲まれる場面では立ち向かう姿を見せる。蝶衣は舞台と夢に生き、現実では儚げに佇むのみでうまく立ちまわれず、舞台を荒らされても戦うことはできない。蝶衣はとにかく現実感や生活感がない。おそらくゴミ捨てとかちゃんとできないタイプだ。
2人は小楼を巡ってどちらかが選ばれどちらかが捨てられるしかない以上、非常に切実な対立関係にある。菊仙が愛されれば蝶衣は1人になる。映画中では雷雨のシーンが二度ある(送剣のくだり(菊仙と小楼の婚約)/文革前夜に菊仙と小楼の夫婦の営みを目撃してしまう蝶衣のくだり)が、その二度とも蝶衣は小楼を目の前で菊仙に掠め取られ、雨の中を1人去っていく。
ただそうありながら菊仙と蝶衣は激しく憎悪しあう恋敵という対立関係に終始せず、母子の関係性を内包しているのが興味深い。
鈍感な小楼よりも、同じ男を愛する女性として蝶衣の心の機微を敏感に感じ取っていたのは菊仙だ。初対面、動揺と怒りが滲む蝶衣を一眼見て彼の小楼への愛を悟る菊仙は、小楼よりも遥かに蝶衣を理解している。理解しているからこそ的確なやり方で攻撃でき、また一方で母親から捨てられた蝶衣の孤独に気がつき抱擁することもできた。
終盤、菊仙は文革の弾劾を受ける小楼を案じ声をかけ続けているが、小楼が蝶衣と袁世卿の関係を暴露しようとしたとき、際立って激しく叫びそれを遮ろうとしている。娼婦を辞めて愛する夫の普通の妻になりたかった菊仙は、娼婦だったという過去の業から抜け出せないことを恐れていた。パトロンへの身売りなど娼婦と変わらない。その事実を愛する人から暴露されようとしている蝶衣を見殺しにできるはずがなかったのだ。だから「その持ち主が蝶衣を救う」「小豆子を妃に据える」はずの剣を救い出した。菊仙は高い場所から受け止められて救い出されて、小楼の妃になった女だ。すでに菊仙の中では敵意よりも共感と慈愛が勝るようになっていたのかもしれない。
しかし、この蝶衣への共感と理解、慈愛は、羽織を拒絶した時と同じように蝶衣に受け入れられることはなく、2人の関係は断絶の道へ進んでしまう。
思い返せば、剣を贈るのは最も親しい友、知己の間柄…という話があったが、菊仙が死の前に蝶衣に剣を贈ったことが、蝶衣の気持ちを一番理解している人物が菊仙だったことに関連しているようにも思え、とても切ない。

▪️菊仙の愛の喪失と死
菊仙は、弾劾の中で問い詰めを受けた小楼が本気で彼女を愛していない、と信じ込んだわけでないだろう。
なにしろ小楼は浅薄なのだ。蝶衣ほど劇に身を捧げる道を選べないし、蝶衣の愛がわからず菊仙に流されて結婚する。もちろん小楼は2人を愛している…それなりには。しかし小楼しかいない蝶衣と菊仙に比べて、小楼はそれほど切迫した愛情を持ち合わせていない。鈍感で場当たり的、人前で格好をつけて振る舞わずにいられない、そんな彼の性質を利用して自身との結婚に持ち込んだ菊仙は彼の浅薄さをよく理解していたはずだ。浅薄な彼の発言自体にさほど意味はない。
菊仙は小楼が自分を愛していないと分かり自死を選んだのではなく、それまで強く信仰してきたよすがとしての愛を喪失したために自死を選んだのだ。
菊仙にとっては、高いところから飛び降りたところを小楼に抱きとめてもらった出来事は非常に重要なものだった。小楼に浅薄なところがあろうと、鈍感でオポチュニストであろうと、最終的に自分を抱きとめ守ってくれた愛の存在は確かな事実であった。
ところが、紅衛兵たちに囲まれ高いところに立たされた菊仙を小楼はもはや受け止めてはくれなかった。そこで彼女が数十年間信じてきたものが覆ってしまった。「もう愛していない」というのがその場しのぎの嘘であろうが、その言葉が出てくることそのものが自分を抱き止めてくれなかったという事実であり、これまでの菊仙の人生をかけたものへの否定に他ならない。
菊仙が身重の体で国民軍に立ち向かったのも、殺される可能性があっても紅衛兵に立ち向かったのも、自分を高いところから受け止め妓楼から救い出してくれた夫の愛への献身、信頼からであるのに、高い塔の上に取り残されるというのは、その献身、ひいてはこれまでの人生を否定されるのと同じことだった。だから菊仙は虚無の中自死を選ぶのだ。

▪️菊仙の持つ運命
信じてきた愛が死にゆくのを前に菊仙は炎の向こうで茫然自失とした表情を浮かべていた。人生全てを否定するほどの絶望の前に立ったとき、死の前のように走馬燈が脳裏を巡る。女郎を辞めるおりオーナーに吐き捨てられた言葉が頭に浮かんだことだろう。「素性はすぐに分かるからね!」「あーら、そうなの。死ぬほど怖いわ。」「一度春を売った女は、一生売春婦のままなのさ。覚えておくがいい。」この言葉のまま、20年が経っても過去を暴かれ素性を晒される菊仙。劇中のルールに従えばこの流れは妓女の菊仙が得た「責任をとるべき運命」なのだろう。
また、小楼による愛の否定は集団を前にした場当たり的な行為で、菊仙があえて集団に囲ませて小楼に場当たり的に愛を誓わせたことと対になるかのようだ。同じような形で愛を獲得し失うこともまた因果の巡り、報恩とも思える。

▪️小四
小四は蝶衣にとって弟子というよりもわが子だ。蝶衣が逮捕される時、小四は警官にしがみついて止めようとし引きずられており、小四からしても蝶衣を強く慕っていることがわかる。子どもに告発を受ける親の図というのは監督のトラウマが滲んでるようにも感じる場面だ。
かつての師匠を弾圧する小四の裏切りは最悪なものに思えるが、毛沢東への狂信と革命思想は当時の中国の学生たちの多くが半ば洗脳状態となって支持しているか、あるいは自分が助かるためにそれらの活動に参加し誰かを告発しなくてはならない状況であるかで、子どもが親を告発するというのは日常的なものであった。(そもそも動乱期の狂乱と洗脳状態がなかったとしても、なにかとパシられるうえに師匠が阿片で飛びまくってるという境遇を思うと小四は結構かわいそうでもある。蝶衣はちゃんと稽古つけてやってたのだろうか)
ただし小四には、一般的な学生たちとは異なり革命に熱狂し弾劾に参加してもなお古典京劇の世界に憧れを抱き文革を利用したという固有の事情もある。
本来、蝶衣の言う通り芸を極めるならひたすら修行しなくては到達できないものや知り得ないものがあったのに、小四はそれを飛び越えて別の方法で蝶衣の髪飾り(女形の誉れ)を手にしてしまった。このシーンで鏡を見ると、小四と蝶(ケース)の間は2枚の鏡に分かれていて断絶している。この場面は蝶衣と小四の関係の断絶とともに、小四が虞姫の形に装っても蝶(=蝶衣、立女形、本物の芸術人)の世界には到達できないことが示唆されている。

▪️なぜ虞姫が死ぬのだ?
蝶衣が、男に立ち返りながらも死を選んだのはなぜなのだろうか。
いずれ虞姫として自らの持って生まれた運命に蹴りをつけることを誓い自身の頬を打った小豆子がなぜこのときを選んだのか。
ひとつは、そのときがもっとも死に相応しい瞬間であったこと。
文革という脅威が終わり、愛した人と2人きり、愛する京劇の稽古をするというのは、小楼が菊仙と関係して以来何十年も手にできなかった穏やかな幸福の時間だったろう。蝶衣は燃えるような情念をすでに失っている。互いに裏切り合い、間接的に妻(姉)を殺し、あまりにも関係が複雑化しすぎたからだ。この先また2人で共演を続けられるとしても、今も小楼を愛していても、その愛は若き日と同じものではない。肉体も精神もあまりに傷つき老いて、激情は過去に置いてきてしまっている。今このときあるのは、幸福と穏やかな悲しみだけだ。
激動の時代、孤独、愛、芸術に苦しみ振り回され続けた蝶衣にとって、人生で最も幸福で穏やかなこの瞬間が、彼にとっての「サンザシを口いっぱいに頬張ったとき」、すなわち最も死に相応しいときだ。
つぎに芸術(京劇)への愛と小楼への愛の完遂である。
このシーンで蝶衣は「男に生まれ、女ではない」と反芻し、自分が男として生まれたこと、そして現実に生きる男として小楼を愛し続けてきたことを再確認している。これまでの蝶衣はその身に降りかかる強要、芸術への没頭、小楼への愛から分別を失ってきたが、これらを主体的に見つめ直し、改めて舞台と現実を分けない芸術人として小楼を愛する男としての生き方を選択したのだ。蝶衣の自死は倒錯の中の混乱状態の選択ではなく強い意志で望んだ選択だったということだ。
体育館の中で展開されている現実では、「時運なく落ちぶれ、老いてかつての勢いを失った愛する人」の姿は覇王をまさしく体現している。小楼はこれまで終始あらゆる場面で「偽の覇王」であったのが、皮肉にもこの時はじめて真の覇王になっている。
そして小楼同様に老いて、過酷な経験からかつての激情を失った蝶衣自身ももはやかつてのようにひたすらに芸の探求者として生きていくことはできない、死にゆく虞姫だ。
さらに体育館の外からは自国の歌、歌唱祖国が響く「四面楚歌」。
2人はこのとき限りなく真の覇王と虞姫となっている(現実と舞台が限りなく同化している)。そしてこのときが、老いた2人が覇王と虞姫になりえる最後のときでもある。
蝶衣であればこの最高の瞬間に役者として真に迫る虞姫を演じ切ること、覇王となった愛する男のために虞姫として命を差し出すことは必然、「責任を取るべき運命」なのだ。
死によって、蝶衣は覇王別姫を限りなく完璧なものにし、覇王に愛を捧げた。蝶衣は覇王である小楼と芸術に殉じて命を絶ったのだ。
最後の瞬間の小楼の「小豆子」の呟きと微笑みは、かつて現実と舞台を混同するなと言い頑なに蝶衣の愛情を現実世界で受け止めなかった小楼が、蝶衣の「真的虞姫」の姿から、蝶衣にとって現実と舞台をあえて分けることに意味などないということ、蝶衣が倒錯からではなく心から小楼を愛し続けていたことをようやく悟ったことを示しているのではないだろうか。
(追記)別の考え方として、そもそも「虞姫として死ぬ」のは、蝶衣が虞姫を降ろされて以来求めていた希望であり、再会により夢を叶えられる時がとうとう到来したという、必然的な終着地点ともいえるかもしれない。
虞姫の運命は、覇王のために死ぬか他の王の妾になるかであるが、蝶衣は張翁のもとに連れ去られ愛するひとへの貞節を全うさせてもらえず、その後も宝剣のため、苦痛から逃れて生きるため、ことあるごとに貞節を捧げる道を選べなかった。
その上で小四に虞姫を降ろされたとき、決定的に「虞姫として死ぬこと」が蝶衣の希望になったと考えられる。蝶衣はこのとき自分の手で小楼を舞台に送り出しその場を去ろうとするが、それでもなお自分ではない虞姫のための小楼の歌声を聞いた瞬間、思わず体が動かなくなり立ち止まってしまう。この瞬間、蝶衣は大切なものを何もかも失い、精神的には完全に殺されてしまった。虞姫を降ろされ覇王の虞姫として死ぬことさえ許されないままの死だった。この孤独で空虚な死のあとには「虞姫として死ぬこと」だけが蝶衣の最後の希望として残った。
この、再会の前から虞姫として死ぬことを決めていたという解釈も、虞姫を降ろされた場面の深い絶望感を考えれば成り立ち得る。

そのほかも象徴的なアイテムを繰り返し使ったり伏線が多かったり情報量がすごいので細かい部分を以下にメモ
・金魚
幕(フィクション)の金魚と本物の金魚。阿片の苦しみの中で幕の柄(美しい偽物)と本物の金魚(汚い水の中で泳ぐ)が交互に見える。現実と虚像の境目なく生きる蝶衣との関連性。
また金魚はその存在自体、水槽の閉ざされた世界で美しさを愛でるためだけに作られ生かされている生き物である。
・同じ路地の反復
最初は王先生を見かけた小豆子と小癩が近道といって通る道。スターダムにのしあがった蝶衣と小楼が人力車に乗って通る。共産党解放軍にはしゃぐ小四がスキップで駆けていく。最後は文革の引き回し。金魚の水槽のように役者たちが生きる世界は狭い。
・レンガ割りのシーン
レンガ割=「力抜山兮気蓋世」
レンガ割は、力強いヒーロー(覇王)である証
小癩を庇い石頭でレンガを割る。逃亡の罰を受ける小豆子を庇う(額というより眉?)。遊郭で酒器を割る。文革のなかではレンガを割れなくなり力を失った覇王の姿。
・炎による断絶
炎越しの弾劾のシーンでは3人が炎により断絶しているが、のちの菊仙の縊死の場面でも写真の中の菊仙と小楼の間もろうそくの火が映り込んでいる。
・小楼宅の時計が鳴る音
文革前夜夫婦で酒を飲んでいるときに不意に鳴り、思わず笑う菊仙。縊死の場面で大写しになる写真と共にも時計の音。写真の中で笑う菊仙。
・服や毛布をかけてあげるシーン
(遊女の母→小豆子、小豆子→小石頭、小楼→菊仙、菊仙→蝶衣)
・蝶衣に外套をかける女たち(母親、菊仙)と、外套を捨ててそれを拒絶する蝶衣
菊仙を母親と重ね合わせて憎悪していることが明確に分かる。
・写真
菊仙が阿片に苦しむ蝶衣の元に駆け寄ろうとしたとき、小楼と蝶衣の写真を踏んでしまう。写真の2人の間には裂け目が走る。
・鏡
・サンザシの砂糖漬けを売る声
稽古場からの逃亡前、トップスターになってからの劇場前、日本軍から助けられた小楼が舞台を降りてしまったあとの劇場前
・刀研ぎの声
断指前のシーンだけでなく、断指の後に稽古場に証文をとられ母親が立ち去るシーン、セリフを誤って折檻を受けた手を見つめるシーン、張翁に性暴力を受けたあとに拾った捨て子(小四)を見つめるシーンでもかかっている。断指が去勢のメタファーなので、刀売りの声がかかる=性同一性を見失いかける心の揺らぎ?中でも最後に刀研ぎの声がかかる小四をぼんやり見つめるシーンでは、刀研ぎの声と養成所の掟のようなもの(一芸を極むるべし…)の発声が同時にかかる。
・冒頭の刀研ぎが現れるシーン
手前で人が死んでる。指を切るか、野垂れ死ぬかを選ぶしかない小豆子

その他の細かい感想とか
・理想(芸術の探究・愛する人と結ばれようとすること)だけを見つめ立ち続ける、浮世離れしながらも強くまた究極に利己的でもある、そうした姿の程蝶衣はまさしく姫。現実を無視して妥協せずひたすらわがままに生きていく選択肢を選べるのは彼が本物の姫だからなのだ。愚かで弱々しく力を持てない、それなのに強く美しい、魅力的なキャラクター。
・最も悲痛なシーンは個人的に「覇王の虞姫」を降ろされる場面で、振り返る蝶衣が崩壊寸前であるのに恋敵には決して縋らず誇り高くあろうとする哀しみに満ちた美しさ…は勿論言うまでもないが、その前、覇王を舞台に送り出した後舞台に背を向けて去ろうと歩き出したのに、小楼が唱い出したのを聞いた瞬間反射的に身を震わせ歩みを止めてしまうその後ろ姿があまりにも切ないのです。間違いなく自分の手で覇王を送り出し、当然そうなるのは分かっていたことだったのに、それでも自分ではない虞姫のために唱う覇王の声に思わず体が反応し、歩みを進められなくなってしまう蝶衣。立ち去って聞かない方が傷つかずに済んだろう。小楼と彼に寄り添う自分ではない虞姫を舞台の裏から目にしてどれほど心が引き裂かれただろうか。覇王を舞台に送るという死刑宣告の受容ののち、覇王の歌声によって蝶衣はこのとき死んだのだ。それも、覇王の虞姫として死なせてすらもらえず、孤独に死を迎えた。このとき虞姫として死ねなかった哀しみが、最後に虞姫として死ねる幸福に確かに繋がってしまう。
・運命に逆らうなの運命とは?いろんなものが説明できてしまうので難しいが、文革時の蝶衣のセリフから、降ってわいたようなものではなくて決められた道筋のようだ。運命に逆らおうとしてもそれ自体も道筋の一つということになるのか?
・冒頭の描写
①「大変な時代だった。全部4人組のせいだ」といわれ、返事を言い淀み困惑する蝶衣と小楼。文革では奇跡的に死ななかったというだけで人生をまるっきり破壊されていること、4人組のせいというよりも大衆の狂気にさらされ死に瀕したのだということ、そして文革以前にも歴史が動くたびにその歪みを受け続けてきたことが背景にある俳優たちは他人事のような4人組批判にうまく応えられない。(文化大革命の狂乱を記録したカメラマン李振盛氏のドキュメンタリーで、インタビューを受ける文革の吊し上げ被害者やその家族は、大衆にどれほど悲痛な暴力を受けたかを涙ながらに話す。4人組のせいで、と話す被害者はいない。4人組のせいだと言うことができるのは、暴行と殺戮の被害者ではないからだ。)
②小楼が蝶衣と会っていなかった年数を忘れているというのは、菊仙の命日をはっきりと覚えていないということでもある。蝶衣との思いの差というだけでなく、小楼の頓着しない(しなさすぎる)性格や彼の老いが現れている。別姫の初演についても忘れていた小楼は結婚記念日も忘れるタイプ。
③ハキハキと調子良く話す昔の小楼と比べ、老いてしまい衰えが隠せない。蝶衣に寄り添われながら登場する姿は夫婦のようだが、若干介護に見えるほどで切ない。また不遜さが消え丁寧で謙虚な口調は一般人然としており文革の傷も思わせる。チャンホンイーのこうした雰囲気作りがうまい。
④蝶衣が宝剣を持っている。11年前に菊仙から残された宝剣は小楼に渡されることなく、蝶衣が持ち続けていた。そして宝剣は赤い飾り紐が焦げて黒ずんでいる。菊仙がいた痕跡。
・蝶衣のメイクは弾劾の場では単に崩れているだけでなく若干醜く施されてように見える。薄暗い劇場の中に比べると屋外で同じ舞台化粧を見たときは印象も変わるものだが、それを差し引いても目元の赤が異様に強く口紅もオーバー気味、眉と目がきちんと上がっておらず高貴な姫とはいえない姿。目元の赤の強さは狂気的。小楼はもはや全く化粧が落ちてしまっている。菊仙はこれまでの姿と変わって化粧をしていない。ただし菊仙については、この時代の中国では華やかに着飾ると弾圧される空気があったので意味があるものかは何とも言えない。
・作中年表を作ってみると、蝶衣が小楼と共演できていた期間はとても少ない。
・衣装を纏めて燃やしてしまうシーンに虞姫の衣装がない?袁四爺と戯れるシーンにすら虞姫の衣装が掛かっていたほど、虞姫とその衣装に意味をもたせて使っているのに。虞姫の座を最も傷つく方法で奪われたなら、真っ先に虞姫の衣装を燃やしてもおかしくないはずなのに。虞姫になること(小楼に抱く思い)だけはやはり捨てられないのだろうか?(本編に採用されていないメイキングの映像を見ると虞姫っぽい衣装が微かにみえるので単に見えていない可能性もある。)
肉袋

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