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ミッシングのせっのレビュー・感想・評価

ミッシング(2024年製作の映画)
4.0

久しぶりの好きなアーティストのライブに行っていた日、娘が行方不明になって3ヶ月、必死にビラを配り、テレビの取材に応じるも成果は無い日々を送り、心が憔悴しきっていく母親を描いた話。

『空白』では撮られたくないのに世間に晒されてしまう人(確か)、『神は見返りを求める』では自分の承認欲求のために自らを世間に晒す人、が描かれてたと思うんだけど、今作は誰かのために撮られること/撮ることを望む人の話かなと思った。

メディア側の中村倫也演じる砂田は、取材対象の気持ちを推し量れてしまう優しくて良い人、そして偏った報道を嫌い、できるだけ"事実"を伝えて公平でいようとしている。砂田の撮る理由の根本は、沙織里の気持ちに寄り添い、事実を伝えたい。一方で、沙織里の撮られる理由は娘が戻ってくることを望む一点のみ。

正直、事件であろうと事故であろうと娘が戻ってくる可能性は限りなく0に近い。でも完全な0ではない。恐らく沙緒里はそこに縋っていないと完全に心が崩壊してしまう。それが、事実。砂田の信念である"事実"を映すとは、この残酷な現実を沙織里に突きつけることになる。それは、砂田のもう1つの信念、沙織里達の気持ちに寄り添いたいと相反するもの。

撮れば/撮られるほど、お互いの信念が崩れていく。報道は娘が戻ってくる可能性が低いことを突きつけるだけ。撮る撮られる立場の決定的な溝と乖離。

"事実"を公平な目線で伝えることがメディアの正しい姿勢なのか?という疑問を突きつけられた気がした。何の意図もなく事実をそのまま報じただけでも、必ずそこから見る人が連想・考察してしまうものがある。「何でもないようなことが」を聞けば虎舞竜のあの歌を多くの日本人は連想してしまう。客観的に見て、あの日ライブに行かなければ、カジノに行かなければ、娘は居なくならなかったかもしれない。それは誰もが思うことだし、客観的に見て誰もが思うことは大抵の場合その本人も同じことを思っている。わざわざそれをもう一度伝える必要がどこにある?
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