デニロ

ミッシングのデニロのレビュー・感想・評価

ミッシング(2024年製作の映画)
3.5
冒頭のビラ撒きで『二人静か』の夫婦を思い起こした。事情が異なるのは、『二人静か』の事件はもう何年も前のことで、本作の夫婦は、三か月前に行方知れずになったおさなごを探し求めている姿を地方のテレビ局に取材してもらい、世間に呼びかけているところなのです。

6歳の娘がいなくなった時、母親は弟に娘を預けて推しのアイドルグループのライブに行っていたという。そして弟は娘と公園で遊んだ後、家には送り届けずに公園で別れる。公園から家までの距離約300メートル。その300メートルで娘は失踪した。

娘を探し求める夫婦/石原さとみ、青木崇高の話が主軸なのですが、わたしは、彼らを取材するテレビ局の記者/中村倫也の静かな佇まいに興味をそそられるのです。彼には、野心があるのか、それはどんなものなのか。地道に地域に密着した取材を重ねて後輩たちからの人望も厚い。彼の姿を見ながら若い記者が刺激的な取材をし、スクープをモノにしていく。若手記者の飲み会で、彼から認められて声を掛けられた後輩記者はそれが自慢だ。キー局を全て落ちて入局してきた新人の記者もその輪に入って意気軒昂となり連れてこころが弾むのです。

そんなある日、新人記者から、スクープをモノにして局長賞を取った記者がキー局に引き抜かれて転職するという話を聞く。え?と返すと、聞いてませんでしたか?先輩には真っ先に報告していると思ってましたけど。後輩が職場で退職の挨拶をしている時の複雑な表情。ポーカーフェイスを気取っているのだが、小さな動きでこころがざわついでいるのが分かる。そして新人記者がキラキラとした目で言う。わたしは中村倫也のような地域に貢献できるような記者になりたいです。鞭打たれているようで残酷な場面です。

さて、夫婦による行方知れずの娘の捜索。近所の支援者や、それぞれの勤務先や、テレビ局の中村倫也に頼らざるを得ない。警察の捜査も手掛かりなしで行き詰まっているところだ。加えて、SNS上では石原さとみの推しアイドル狂い、と炎上していてイライラは募るばかり。ライブだって何か月も前から計画していて、行ったのはその日だけなんだよ!行かなけりゃよかった、と懺悔してみたり、弟がちゃんと連れ帰ってくれていたらと、責任を押し付けたり。加えて、青木崇高の動きが鈍いと詰ったり、娘がいなくなったって泣きもしないじゃないのよ!、としなくてもいいような諍いを起こしている。揚げ句に、テレビ局の対応も視聴率を取れなくなったら取材も小さくなって!!と逆上しては我に返って平謝りしたり。やれやれ。こんなのが近くにいたらわたしは逃げ出しますよ。青木崇高も中村倫也も実に我慢強い。とりわけ中村倫也は全くの赤の他人なのに、石原さとみの激しい抑揚に惑わされることなく静かに寄り添い続け、局の上層部の視聴者を煽るかのような報道方針に異を唱えたりもする。

毎日のようにSNSで見知らぬ人とやり取りして、蓄えていた金を奪い取られたり、性暴力を受けたり、、詐欺の首魁にされたり、誹謗中傷の餌食になって自殺したりと、ろくでもないニュースが流れている。/そんなもの見なきゃいいだろう!/見ずにはいられないのよ!/青木崇高と石原さとみの会話にすべてが言い表されている感がある。ビラ配りという地道な地上戦が、悪意の大音量の電脳戦でおじゃんにされそうなのだ。

二年後。変わらずにビラをまき続けるふたり。すでにテレビ記者の姿はない。取材の途中ふたりを見止めた中村倫也はその姿に声を掛けることもできない。その時、自分の娘と同様の事件が起こり、すわ、同じ犯人ではないかと石原さとみの妄想がひた走る。が、それも的外れ。でも、その地上戦で触れ合った人のひとことに、二年前は隠れて泣いていた青木崇高はちゃんと泣くことができたのです。

今でも地道に地元のニュースを追いかける中村倫也の姿を浮かびあがらせるけれど、二年前には海岸にいたアザラシの姿は今はない。中村倫也のような記者になりたいと言っていた新人記者はまだいるのだろうか。

舞台は静岡県の沼津市。わたしが育った場所はお隣の町。関西や東北や四国や九州を舞台にすると役者にそれなりのイントネーションで喋らせると思うのだけど、本作は物語の毒にも薬にもならない標準語。石原さとみににゃぁにゃぁの沼津弁で台詞言わせたら臨場感溢れたろうと思うのですけれど。彼女の髪ふり乱した姿に被さる台詞を聴いていると、うん、これはフィクションなんだとそう思って我に返るわたしがいました。
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