まぬままおま

こいびとのみつけかたのまぬままおまのネタバレレビュー・内容・結末

こいびとのみつけかた(2023年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

「これはメロドラマである」と宣告する本作は、間違いなく現代の日本のメロドラマである。もはや男女はコンビニと公園と床屋といった生活圏に留まったままで、セックスもしなければキスもせずに「結ばれる」。極めて現代的だ。

植木屋で働くトワはコンビニ店員の園子を気になっている。彼女と話すためには何かしなければならない。そこでトワは仕事で集めた落ち葉を道に並べて公園におびき寄せることを考える。全く現実的でない方策なのだが、園子はなぜだか公園にやってくる。この潔い二人の出会いに心躍るのだが、彼らはどんどん仲良くなる。

二人が仲良くなるのは、世間的にみればどちらも変わった人物だからだ。トワは落ち葉を拾い集めるといった金にもならない仕事をしているし、雑誌の時事ネタを切り抜いてポケットに入れて雑談のひとつにしている「ヤバい奴」だ。園子も個性的なピアスをつけていたり、お弁当に白飯とレトルトのルーを持ってきたり、何より上述の方策に「ついて行く」のだから変わっている。このように変わった人物だから、互いの変わりようを受け入れて仲良くなっていく。もちろん二人が変わっていることを個性と捉えることは可能だ。しかしそれは社会で生きづらさを抱えていることも意味する。

彼らが社会から疎外されている様子は合コンシーンからも窺える。トワは仕事仲間を、園子はかつてのモデル仲間を呼んで3対3の合コンをする。しかしトワと園子は彼らとは隔った別のテーブルに座っている。本来は同じテーブルに着けばいいのだが、二人はほかの人の会話に「ついていけない」。それはくだらない身の上話でしかないし、そんな話が社会や世間、空気を形作っているのを分かっているから耐えられない。二人は合コンを抜け出して街を颯爽と駆けるのだが、その様子はミニマムかつドラマティックだ。

二人が近づくのは互いの変わりようを受け入れたからだ。しかし受け入れ、対話するためには、文化の共有が前提なのである。
彼らが街を駆け抜けた後、訪れるのは園子の部屋だ。彼女の部屋は倉庫の一室のようで、そこで彼女はオリジナルな彫刻を制作していたのだ。トワはその彫刻をみる。対話が始まる。話は音楽や歌、誰しも歌手であることに変わる。このことから私は「対話」より「文化の共有」の方が大事だと思うのである。文化の共有がなければ対話は生まれないし、対話をしても合コンのように身の上話にしかならないーそれもよいとするかは判断が分かれるー。彼らは文化の共有をして、さらに親密な関係になりセックスをしたり、恋人関係になるかと言えば違う。そのままトワは家に帰る。

トワと園子の関係に危機が生じる原因は、園子が既婚者であることが発覚することだ。なぜ園子が倉庫の一室で別居していたのかは、彼女が死産をして家庭にいづらくなったからだ。夫と大喧嘩したわけではない。むしろ夫は彼女が別居して心の距離を離すことに理解がある。トワはこの事実に愕然とする。園子には夫がいて、家もあって裕福な暮らしをしている。対してトワは園子と恋人になる可能性は失われているし、低収入でビニール小屋の暮らしをしているから格差を見せつけられる。

けれど彼らは「結ばれる」。それはケアによってである。ケアは本作で何度も繰り返し描写される。そもそも植木屋は草木を手入れ≒ケアする仕事である。トワは床屋のコミュニティに居場所をもっているのだが、床屋の店主が彼を気にして髪を切ることもケアである。また彼のビニール小屋が台風で吹き飛ばされ、園子の「部屋」に行き助けを求めたときも、彼の濡れた髪を彼女が拭く。さらに象徴的なのは、園子の気が動転し、壊れてしまった彫刻をトワが修繕することである。
トワと園子は性愛的には結ばれない。けれど文化を共有して、側にいる。側にいて話をする。そして相手のことを気にかける。そのケアの働きが彼らを結びつけるのである。

だからトワと園子は再会できる。トワが彼女の彫刻を修繕してみせたから。もちろん落ち葉作戦も功を奏して。

ケアし合う彼らは、必然的に誕生の肯定に向かう。誕生を肯定し、他者の生をみつめなければケアは行えないからだ。二人は互いの誕生日に誕生会でバースデーソングを歌う。その歌はプロと同様に上手いわけではない。だが彼らが互いのために必死で歌うその懸命さは、まごうことなき生の無条件の肯定であり、祝福なのだ。誕生会に参加する床屋のコミュニティの人々も分け隔てなくそこにいる。

そこに脱性化された二人の愛とあり得べき共生がみてとれるのだ。

***
そうはいってもトワはこのままでいいの?とは思ってしまう。なぜなら彼は庭師にはなれないだろうし、園子の夫には一生勝てないからだ。庭師になれないのは、トワが病障害的に「ヤバい奴」と表象され、熟練した技術を習得するのは難しく落ち葉を拾うアシスタントの仕事しかできないと思うからだ。さらにトワと仕事のあり方は物語で変化するわけでもない。このことはトワが一軒家を購入することが現実的に不可能ということであり、彼が園子の夫の地位につけないことも意味する。もちろん結婚しなくても男女は結ばれることや仕事での世間/経済的な成功ではなく、床屋の店主のように誇りを持って仕事することのよさを肯定するわけだからそれでいいのかもしれない。でも園子には夫がいて、家があり、経済的にも豊かである。世間的な人生の成功を獲得している。しかも園子の夫は、トワが大事にしている床屋のコミュニティに容易に参入できる。
園子と夫は「全てを持っ(have it all)」ている。トワは病障害者として社会に排除され、一生低賃金で家があるかどうかさえ分からない。この階級移動の不可能性を維持したまま、トワと園子の愛を描くのは、正直、持たざる者の癒やしにしかなっていない。

トワのヤバさを病障害的に描いたり、捉えたりしていいのだろうか。実は個人のヤバさやまともじゃない様は、個人の心的傾向だけではなく、社会規範とその逸脱から生じていることをも前作『まともじゃないのは君も一緒』では明らかにしたのではないでしょうか。だからこそトワには仕事に対する肯定的な変化がほしかったし、部屋は獲得してほしかった。そこがとても本作の残念に思う点である。

さらに本作は、脚本は秀逸だと思いつつ、その秀逸さがイメージとして的確に描写されているか疑問に思う点がある。最もそう思うのは、トワと園子の再会するシーンである。物語の後半、二人を結びつけることは「おかえり、ただいまと言い合う」といった対話になってしまっており、それに合わせてこのシーンも描かれている。それにより二人が再会すること自体が強調されるのだが、大事なのは「トワが園子の彫刻を修繕して彼女にみせること」であるはずだ。しかし彼女は彫刻に対して一切リアクションを示さない。カメラもまた二人を映すだけで、彫刻を後景化している。ここも残念に思う点である。

ただトワと園子のやり取りで、トワが園子を自室に誘って性愛的な展開になることを物語として拒否して、トワが園子の部屋に台風で転がり込みケア的な展開で物語を推進するのは、とても現代的であり素晴らしいと思った。さらにトワの先輩・和樹と園子の友達・里穂が合コンで結ばれることも従来の性愛関係の余地を残す周到さであると思った。

傑作とは言いがたいが、現代のメロドラマとしては示唆的な描写が多々あり、一見の価値は間違いなくある。