むーん

落下の解剖学のむーんのネタバレレビュー・内容・結末

落下の解剖学(2023年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

ミステリ小説における命題として、『後期クイーン問題』というものがある。作中で提示された手がかりに基づいて行われた推理が事件の真相とイコールであることを証明できないというものだ。探偵がつかまされた手がかりが別の犯人によって仕組まれたモノである可能性は、メタ的な視点を持ち込むことでしか否定できない。だからこそ、ミステリを純粋なゲームとして設定するためには『ノックスの十戒』などといったルールが必要だとする向きも現れる。
しかし、現実においては、真実は当事者の間にしか存在しない。ひとつの事件に対しての第三者の視点は、認知バイアスに基づいた『解釈』に過ぎない。そうした世界観は、例えば気候変動の問題は存在しないと言い張る向きや、ドナルド・トランプの選挙において不正があったとして議事堂を占拠した手合いが存在するように、『ポストトゥルース』の思想として時代を蝕んでいる。
本作は、そんな現代の空気感を如実に反映している一作だと思う。山荘から夫を突き落としたかもしれないとして妻にかけられた容疑は、物証を伴わない。自殺か他殺かを争う裁判は、次第に弁護側も検察側も印象操作めいた言論のぶつけ合いへともつれ込み、泥試合の様相を呈する。そして結審の決め手となる息子の証言も、結局は『彼がそう信じたい』という感情にしか論拠を求められないものだ。
この映画の中で、真実は描かれない。しかし、『真相など主観に過ぎない』として、真相を求める態度を糾弾しているわけでもない。なぜなら、我々観客は、当事者である被害者の妻が真実を抱えていることを知っているからだ。だからこそ、真相の自明性を疑うことによって『脱構築』を果たすポストモダンの思想がやがては『真相は個々の主観に過ぎない』という極論を招いてポストトゥルースの時代へと進行した流れに、無自覚的に与しているわけではない。『真相は存在するが、第三者がそれを断じることはできない』という、まさに現代に向けた処方箋として、この作品は成立している。
ただ、純粋な観客としては、作中でTVのコメンテーターが発していた台詞に同感したくもなる。『真相などどうだって良いが、彼女が殺していた場合のほうが面白い』。僕はこの場面を観た時に、昨年のM-1グランプリで優勝したコンビがネタ内で発していた『どうでもいい正解を愛するより面白そうなフェイクを愛せよ』というフレーズを思い出した。実際に起きた事件だって、第三者にとってはフィクションと変わらない。それを床屋談義的な感覚で『消費』することは、決して悪だとは思わない。むしろ、その程度の程よい無関心を貫くぐらいの方が、主観に偏った陰謀論に染まるよりも健全だとすら思うのだが、どうだろう。
むーん

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