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関心領域のLCのレビュー・感想・評価

関心領域(2023年製作の映画)
4.4
見て良かった。

たぶん、感受性より知識が問われるかもしれない。
視覚的に衝撃の強い場面はないので、耐性なくても問題なく見られるところはとても素敵。
聴覚に訴える怖さが目立つけれど、やっぱり知識の有無で違ってくるような塩梅だと思う。
でもとりあえず、主に知識がなくともわかるところを記録してみようと思う。

ある家族が、自分たちの日常を紡ぐ風景。
豊かな暮らしの中で談笑していると、銃声が聞こえる。しかし、関心を払う者はいない。
これは彼らが特別冷たかったり、ましてや狂人であったりするからではなく、極々一般的な、どこにでもいる人たちであることを忘れてはならない。
彼らの姿を見て、自分の姿を見る。自分も、何かと隔てられた壁の外に生きていると、気付けるかどうか。
作中の彼らみたいに、わかりやすい壁が立っていたり、耳に銃声や悲鳴が届いたりすることはないかもしれないけれど。

服やカーテンを選べたり自分のものにできたりしたわけだけれど、それらは元々誰のものだったのか。
不思議だけれど、「殺した、或いは迫害した相手の服を身に付ける」行動は、殺す側の人に普遍的に見られるものだったりする。
ある家に押し入り住民を殺した男性兵士が、その家を物色し女性ものの下着や服を身に付け、笑顔で写真を撮ったりとか。
戦利品という意識なのかな、と想像はできても、それだけでも説明しきれないものを、談笑する姿からは感じたりする。
殺す相手のことを人以外の呼び名で示すのも、よく見られるものだよね。動物に例えたり、作中の印象的な言葉なら、「荷」とか。

でも、殺す側も日々の自分の生活を守ることに一生懸命だ。
仕事は忙しいし、子どもは手がかかるし、人付き合いで気を揉んだりするし、決して悩みなく笑って過ごせるわけでもない。
日常を生きている。その日常に、ささやかな心休まるひとときがあったり、納得いかずに怒る瞬間があったり、時には静かに涙する時間があったりする。
どこでも営まれている、人の日常。
花の香りを楽しみ、食べ物の美味しさを満喫し、あたたかなベッドでのびのびと眠る豊かな毎日。
そんな毎日を、心配事に心煩わされたりしながらも、何とか維持しようとしている。
わしらと同じような日常。

たぶん、作中の家族だって、壁の向こうを目の当たりにしたら傷付くんだろう。
人が4000度の炎で燃えるところとか、銃弾で倒れるところとか。
だからこそ、「見えない工夫」をする。
壁の向こうは、見えない。
そのおかげで、自分の心や日常に集中し、守ることができる。
作品自体の映像構成は、そのことを考えさせてくれるものでもあった気がする。
兄弟を閉じ込め笑顔で観察する姿や、夜眠れずにいる姿、華やかな場で毒ガスのことを考えたり、帰宅できると話した後に不調を感じたり、見えない工夫を凝らしたところで、影響が全くなくなるわけでもないことも描写されている。

誰だって、傷付きたくないし、ましてや自分が悪者だと思うのはストレスが大きいものだろう。それを如何に緩和するか。
それは人じゃないから。犬だからとか。
それは生き物でもないから。荷だからとか。
それ自身がそうなる原因を持っているから。穢れた血が体に流れているからとか。
何でもいいから、兎に角理屈をこねて、心が痛まないようにする。
なんなら被害者意識だってあったかもしれない。
それのせいで社会が乱れるとか。
理解ある優しい人という自認だってあったかもしれない。
もっと可愛げがあったら話くらい聞くのに、態度が悪いし粗暴だから、迫害されても仕方ないとか。
そうして、無関心でいられる環境を構築する。罪悪感を抱く必要がない、ストレスの極力ない環境。
どこでとは言わないけれど、政治とか社会情勢とかに対して、頑なに話したがらない、真面目に取り合わない景色を見てきたけれど、それはストレスの極力ない環境を得る為に、自ら構築した壁なのだろう。
目には見えないその壁を、あちらこちらに便利に設置し、雑音が聞こえてこないように、音の存在を否定したり、音に関心を寄せる人を揶揄したりする。
音も関心も、ありとあらゆる手段、言葉、態度で殺す。
それでもまだ雑音がするとしても、自分で何とかしろよこっちも忙しいから、と切り捨てる。
自分は既に傷付いている弱い者なので、酷い話は聞きたくありません、という姿勢もよく見かける。
向き合いたくないことに、向き合えない正当な理屈を用意するわけだね。
みんな、そうやって生きている。
作中の家族だけの話ではないんだよね。

途中、りんごを置いて回る人が出てくるところは、映像表現としても興味深かった。
暗闇の中で、りんごやその人は輝きを帯びている。
あたたかな関心を持って行動できる人は、確かに光属性であるかもしれない。
何か起きてくれないと暇だ、という人もいるようだけれど、何かはずっと起きている。
見えないように工夫されているだけなんだよね。
誰かの人生が乱暴に終わらせられている。誰かが人として扱ってもらえないまま、飢えて震える姿を笑われ怒鳴られ、殺されている。
家族や友人がどこにいて、生きているか心配しながら、強制労働の末に体を壊し、治療も受けられず不良品として処分されている。
見えないから、共感もできない、という考え方もあるかもしれないけれど、かつての大虐殺に関する知識は最低限ちゃんと持っているのではないかな。
それでも、りんごを置いて回る人の気持ちも、その人の身の危険も、列車で運ばれるひとりひとりの気持ちも、赤い光にぼうっと見とれる人の気持ちも、何もかも想像できないものだろうか。
いちいち説明されないと理解できないようなことだろうか。

何故人は無関心でいられるのか。
何故人は他者に対する残酷さを受け入れることができるのか。
何故人はそのような現実から自分を切り離すことができるのか。
そして、何故人はお互いに無関心でいることを許し合うのか。
今作のような大虐殺だけではなくて、身近な物事に対しても同じ姿勢をとっている。どれだけ思い当たるだろうか。
そういうことを、ゆっくりじっくり考えられる作品だと思う。

人間性の喪失が目立つ近頃だね。
最後に、アウシュヴィッツでガス室直前まで送られた母をもつ、ガザ地区の経済封鎖研究の専門家、サラ・ロイさんの言葉を記しておきたい。
『人間が自分と同類の者たちの間でしか生きないのならば、寛容と共感と正義は決して実践されることもなければ、広がりを見せることもない』。
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