Kachi

瞳をとじてのKachiのレビュー・感想・評価

瞳をとじて(2023年製作の映画)
4.0
ビクトル・エリセ監督への思い入れの度合いが、そのまま作品の受け取り方を変えるようなそんな作品。

ちょうどエリセ監督の前作公開時、私はまだこの世に生を受けたばかりだった。そのため、監督の来歴や本作を出すまでの空白に思いを馳せるようなメタ的な感想は抱くことなく、感じたままの鑑賞体験となった。

幾つか、コメントを追記したい。

1. 作品のテンポへのチューニングが必要
一つ一つの描写がとても丁寧に描かれる。しばらく作品を出せていないミゲル(エリセ監督と重なる主人公)の感情の起伏は、昨今の作品と比べて贅沢なほどに用意された間、あるいは空白によって観ているものが自然に補完していくような見せ方をしている。

この試みは実際成功していると思う。
ミゲルがフリオと再会するも記憶喪失で認識されないことや、フリオを探す過程で再会を果たす人たちとのやり取りの一つ一つは、とてと丁寧に紡がれている。そこに映画的演出のようなものはなく、日頃の日常生活の延長線上に作品世界がある。すなわち、作品世界は虚構ではあるが、この虚構世界を築き上げているのは現実世界そのものである、ということを突きつけられるのだ。

これが、もしかすると、エリセ監督が作中に散りばめたセリフである「映画による奇跡は終わった」ということの意味なのかもしれない。

作品のテンポが、近年の詰め込み型の作品に慣れている私たちからすると面食らってしまう可能性がある。このあたり、チューニングが不可欠ではあると思った。

2. 失踪したフリオの謎はエリセ監督の来歴関係なく面白い

本作は、撮影中になぜ主演役者が失踪したのか、今は生きているのか、という謎解きの要素がある。特段、奇を衒うような展開は無いが、記憶喪失であるフリオが、記憶を部分的にでも思い出せる余地、可能性を示唆している描写が印象的だ。(あのロープの結び方を自然と出来ていることや、自然とタンゴを踊れているところ、手先が器用なことなど)

ラストシーンで過去の自分を映像を通じて観たフリオの胸に去来したものは何か…観客に解釈を委ねるラストは、私の胸にも迫るものがあった。

3. エリセ監督版のニューシネマ・パラダイス

映画好きのための映画と言えば、ニューシネマ・パラダイスであるが、本作の特に後半シーンを観ながらあの作品の影がチラついた。映画の保存媒体がデジタルに移る中、単語的には映画そのものを含意するフィルム(film)の価値は何か。

それに対するある種の曖昧な解答が、エリセ監督より提起されているようにも思われた。どのような解答か?ということを言語化するのは野暮ったいためここで打ち止めとするが、本作を機に彼の過去作も観たくなってしまった。

〈エリセ監督の言葉引用〉
私はどんな映画を作りたいのか?
そして、それはなぜか?
できるだけ短い言葉で
正確に伝えるなら、答えはこうだ。
『私が書いた脚本から自然に花開いた、
純粋で誠実な必然によって生まれる映画』
でも、この答えだけでは十分でないだろう。
だから、「瞳をとじて」が必然として
伴う“何か”について説明したい。
そのためには概念の領域を掘り下げる
必要があるが、私の意図を明確に宣言する。
もちろん、それはよき意図だ。
よき意図がよい結果を生むとは限らないと、
分かっていたとしても。

プロットの細部を積み重ねた果てに、
この映画が観客に向かって
描こうとする物語は、 密接に関わる2つのテーマ
“アイデンティティと記憶”を巡って展開する。
かつて俳優だった男と、映画監督だった男。
友人である二人の記憶。
過ぎゆく時の中で、一人は完全に記憶を失い、
自分が誰なのか、誰であったのか、
分からなくなる。
もう一人は、過去を忘れようと決める。
だが、どんなに逃れようとしても、
過去とその痛みは追ってくることに気づく。

記憶は、テレビの映像としても保存される。
人間の経験を身近な形で
記録したいという現代の衝動を、
何よりも象徴しているメディアだ。

映画を撮る者の記憶は、ブリキ缶の棺に
大切に保管されたフィルムだ。
映画館のスクリーンから遠く離れて、
映像視聴メディアによって社会における
居場所を奪われた、 それぞれの物語の亡霊たち。
この文章を綴る者の記憶と同じように、
長く刻まれる。

これらの特性を内包した物語は、
半分は経験したこと、半分は想像から生まれた。
私は映画の脚本を、自分で書いている。
だから、私が人生において
最も関心を抱いていることが、
作品のテーマだと考えるのは自然なことだ。
言葉では伝えきれないが、
一本の映画を観た経験が主役となる
詩的な芸術性に属するものだ。
そういう意味で、「瞳をとじて」では
映画の2つのスタイルが交錯する。
1つは舞台と人物において幻想を創り出す
手法による、クラシックなスタイル。
もう1つは現実によって満たされた、
現代的なスタイルである。
別の言い方をするなら、
2つのタイプの物語が存在する。
一方は、伝説がシェルターから現れて、
そうだった人生でなく、
そうあるはずだった人生を描く物語。
そしてもう一方は、
記憶も未来も不確かな世界で
さまよいながら、
今まさに起こっている物語だ。
Kachi

Kachi