雑記猫

月の雑記猫のレビュー・感想・評価

(2023年製作の映画)
3.8
 筆を折ることとなった作家の堂島洋子は、収入を得るため重度障害者施設で働き始める。同僚の職員や入所者たちと交流を深めていく洋子だったが、その一方で、施設で行われている職員による入所者への虐待を目の当たりにすることとなる。そして、その環境が若い男性職員・さとくんの心境を大きく変容させていく。


 2016年に発生した相模原障害者施設殺傷事件を題材とした作品。登場人物たちのバックグラウンドや舞台設定などこそ創作だが、作中で起きる事件の概要は実際の事件にかなり忠実に作られている。ただ一方で、事件の加害者をモデルとしている男性職員・さとくんが主人公でないことからも分かる通り、この加害者の人となりを描く作品とはなっていない。そうではなく、主人公である洋子の前に立ちはだかる”さとくん”に対して、そして、彼が掲げる独善的な優生思想に対して、観客ひとりひとりが自分の言葉と考えで反論できるのか、それが強く問われる作品となっている。


 モデルとなった殺傷事件が大きく報道された際、加害者の動機である「意思疎通のできない重度障害者は社会にとって不要な存在であるため抹消されるべきである」という主張は世間に大きな波紋を呼んだ。これに対し、多くのメディアや著名人が強い非難の意思を示し、国民の多くがこれに同調したが、本作は観客ひとりひとりに対して、「本当に自分の頭で考えて非難していますか?」ということを問うている。本作では「日本社会は好ましくない事実に蓋をする社会である」、「人間は都合の良い綺麗事で体裁を繕う嘘つきばかりである」といった主張が繰り返し提示される。実際、これはその通りで、私たち国民の大部分は障害者差別に反対する一方で、本作で登場するような重度障害者施設や障害者たち、そして、その家族の実態については、当事者でない限り全くと言っていいほど知らない。重度障害者を介護する苦労も、重度障害者を家族に持つ人たちの苦悩も何も知らず、ただただ、「差別反対」という言葉の上っ面だけをなぞって気持ちよくなっているだけなのではないか?、どうして障害者を差別してはいけないのか、ひいては殺してはいけないのか、掘り下げて考えているか?本作はその問いを観客たちにぶつけ、各々の浅慮に思い至らせる作品となっている。


 本作のこの問いかけが如実に描かれるのが、重度障害者の殺害計画を決意したさとくんと洋子が障害者施設で激しく言い合う終盤のシーンで、ここが本作のハイライトだ。演じる宮沢りえと磯村勇斗の迫真に迫る演技、そして、それが宮沢りえのある種の一人芝居へとシフトしていく様は、観客を画面に強烈に引き込んでいく。ここで印象的なのは、重度障害者の殺害を正当化するさとくんの喋りが、このうえなく独善的で歪ながらもロジカルであるのに対して、洋子は感情的な反論しかできていないところである。つまり、本作は「どうして、意思疎通のできない重度障害者を殺してはいけないのか」という問いに対して明瞭な答えは与えてくれないのである。そのため、観客は各々がこの主張に対して、どう反論すればよいだろうかという問題を持ち帰らなければならないのである。そして、これを考えることによって、自分がこの問題を他人事と捉えていたことに気付かされるのである。このシーンで「重度障害者を殺してはいけないと言う一方で、ほとんどの夫婦が出生前診断で障害が見つかった場合には我が子を中絶しているが、ここに整合性はあるのか」という問いが提示される。個人的にはこれが一番頭を殴られるような問いであると感じたし、今はまだ自分の中ではっきりとした答えは出せずにいる。


 「意思疎通のできない重度障害者は人なのか?生きている意味はあるのか?」この問いに対し、ほとんどの人は「もちろん人だし、生きている意味もある」と答えるだろう。しかし、本作はそれに対し、それは本心で言っていますか?人に良く思われたいから言っているだけではないですか?本当に深く掘り下げて考えたうえで言っていますか?本当に当事者意識を持っていますか?という鋭い問いを突きつけている。この作品を観た以上は、皆、この宿題を持ち帰り、自分の頭で答えを導き出さなければならない。
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