とーるさんし

チャイムのとーるさんしのレビュー・感想・評価

チャイム(2024年製作の映画)
3.8
黒沢清にかつてのvシネ時代を思わせる作品を撮る力がまだ残っていたのかと、肯定的な驚きをもって観た。

まず目につくのは幾度も反復される電車の走行音と反射光だ。これらはレストランでの窓ガラスに映る人の横切る姿、或いはインターホンのカメラのざらつく映像、吉岡睦雄が橋を疾走する欄干とその奥の鉄橋として視覚的に変奏されている。何れも実体は映されないが、そこに存在し感じ取れるもの、そしてそれらの変奏である。

思えば、吉岡は何も無いところでよく振り返る。料理教室の前、菱田の霊(と仮定しておく)を目撃した後のビル入り口他、劇中で恐らく3〜4回ほど振り返るが、いずれも何かを感じ取ったように後ろを向くのだ。

本作における鏡の使い方にも同様の一貫性がある。料理教室の鏡、吉岡の自宅の鏡、いずれも登場人物の身体の一部を映し出すに留まっており、全身(実体そのもの)を捉えることは後述する一度しか無い。

実体を映すことへの忌避を最も象徴的に見出せるのは、菱田との遭遇場面だろう。ここでも菱田は映されず、誰も座っていない椅子だけが捉えられている。さらにその動き(かどうかは画面外のため分からないが、そう仮定しておく)は画面外で音のみで処理され、登場人物の叫び声から類推するしかない。この椅子の動く音は、まるで電車の走行音のようにも聞こえてくることに注目したい。同じ料理教室内において、両方とも画面外で処理されるのだから、少なくとも演出上において関連付けられていることは自明であろう。また、菱田が吉岡に刺される場面では、直前に菱田がカメラと吉岡の間に立ち、吉岡の姿が見えなくなっていること(実体の不可視化)も見逃してはならないだろう。

先ほど述べた、鏡に全身が映し出される瞬間。それは、菱田の霊に遭遇した後、ビルの入り口においてである。ここでも注目すべきは、音の移り変わりだ。まず、ダクトの音が異様に大きく聞こえてくる。一般的なビルの入り口において、あそこまで音が大きくなることは大凡ないため、異様と言って差し支えないだろう。そして、吉岡が鏡に近づき、暫く佇むと音が唐突に止む。

菱田の霊(不可視のもの)に遭遇してしまった者が、思わず自らの実体が可視であることを確かめずにはいられない。それ故に鏡に近づく。黒沢清のフィルモグラフィを見返せば、そのような挙動はごく自然な振る舞いだといえる。自らの実体が可視であることを確認できたからこそ、不可視の音が止むのだ。

音というのは実体を持たない不可視のものであるが、同時に存在を感じ取れるものでもある。これは、黒沢清がこれまで描いてきた霊の特徴とも一致する。黒沢清はこれまでのフィルモグラフィの延長線上にある本作において、音を霊として見立て、音の霊的描写を試みているのだ。ここまで指摘してきた本作の特徴を振り返れば、そこまで突飛な飛躍とは言えないだろう。

全体に通底する実体の不可視化について、これまで述べてきたことを考慮すると、本作のクライマックスが、玄関の扉から覗く吉岡と無人の屋内との切返しになるのはごく自然な成り行きである。映画の冒頭で小日向が話していた、当人にしか聞こえない『チャイム』。このクライマックスにおいて、吉岡は不可視の『チャイム』を漸く受け入れるようになり、だからこそ屋内に入っていくのだ。そして、不可視の『チャイム』を受け入れた者は霊化する。そこで映画が終わるのは、黒沢清作品にあっては必然と言えるだろう。

更に言えば、オープニングとラストショットもこれまで語った『実体の不可視化』という主題に沿っている。OPは街の全景ショットから始まるが、そこでは工場か工事現場の打撃音が音源を見せぬまま流されている。また、ラストショットはそもそも無人であるし、扉から後ろへ緩やかにカメラが引いていくその動きが、ヒッチコック「フレンジー」の有名な、殺人を"見せない"殺人ショットを思わせるのだ。

纏めると、本作「チャイム」は、音を霊として見立てた意欲作である。と同時に、不可視である音への視覚表現を試みたという点において、青山真治『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』にも通じており、今や亡き後輩への返し歌であるようにも私には思えてならなかった。(総数109ショット)
とーるさんし

とーるさんし