このような「女性の旅」のあり方を考えるうえで本作は、アニエス・ヴァルダ『冬の旅』や、ニュー・ジャーマン・シネマの嚆矢とされるアレクサンダー・クルーゲ『昨日からの別れ』、あるいは世界的なフェミニズム映画作家シャンタル・アケルマンの『アンナの出会い』『私、あなた、彼、彼女』といった作品群とは自然に接続されうる。また、本作の状況とは真逆の「家に固定された女性」を徹底的に描き出し、移動できない状態を問題化した傑作『ジャンヌ・ディエルマン(以下略)』と本作をめぐる試論として展開することも可能だろう。 しかし私は、以上の既存の系譜からは距離を取りつつ、本作をマーガレット・テイト『Blue Black Permanent』との比較において新たな可能性を見出した。 テイトの作品においてもまた、旅や探求は重要なモチーフであるが、それは主として母と娘の関係性の内部に向かう運動として描かれる(例えば、ローマでの映画制作の研鑽を経て帰郷したテイトが、自身の母の老いゆく姿を詩的に捉えた短編ドキュメンタリー『A Portrait of Ga』などに顕著である)。それは『Blue Black Permanent』も例外ではなく、娘バーバラの探求は母グレタという存在を理解しようとする試みであり、その過程で「母なるもの」は自然や詩、記憶と結びついた根源的イメージとして立ち現れる。要するに、『Blue Black Permanent』における旅・探究は、外部空間を彷徨う運動というよりも、内的・記憶的空間への潜行であると言って差し支えない。 他方で、本作におけるエリザベスの旅は、都市という外部空間への物理的移動として展開されるわけだが、その実態はやはり内的な再編成のプロセスでもある。この両作の差異は、「女性の旅」という経験が移動の形式に還元されるものにとどまらず、内面性との関係のなかで多様に構想されうることを示していると考えられる。 『Blue Black Permanent』では、母という存在が一種の記憶的重力の中心として機能し、娘の探求はそこに向かって引き寄せられる一方で、本作においてはそのような中心的存在は意図的に空洞化されている。エリザベスは自分の子どもを持った母であると同時に、劇中では触れられることこそないが確実に誰かの娘でもあって、そのどちらの役割にも回収されない位置、つまりリヨンに身を置き続ける。つまるところ、そのための「旅」なのだ。彼女の旅は、血縁や記憶の回路に回収されることなく、そのどちらの手も届かない場所における断片と偶然の連鎖のなかで、ただ持続する。 この違いは、フェミニズム映画における主体の捉え方の差異として読むことも可能だ。すなわち、『Blue Black Permanent』が関係性のなかで生成される主体を描くのに対し、本作は関係性からも逸脱し続ける主体を捉える。そして本作においてはその逸脱こそが、家父長制的秩序に対する最も根源的且つ鋭利な批判として作用している。
1982年にはPreis der deutschen Filmkritik(ドイツ映画批評家賞)も獲得している本作が、いまだ広く知られていないという事実は本当に惜しまれるべきことだ。ただ同時に、その理解されにくさこそまさに本作の批評性の証左でもあるのだろうと思う。ここで提示されるのは、あらゆるものに回収されることを拒む女性の静謐な運動であり、それは映画史において繰り返されてきた物語の形式そのものに対して、静かだが確実に、決定的な亀裂を走らせているのだから。