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『Blind Spot(英題)』に投稿された感想・評価

一人の女性の旅を通じて解体されていく男性中心主義的幻想。

フェミニズム映画作家のなかで、とりわけ最も重要な人物の一人と見做されることすらあるドイツ人女性映画作家クラウディア・フォン・アレマン。そんな彼女の長編デビュー作であり代表的作品でもある本作は、2023年にアメリカの映画批評家リチャード・ブロディらによって、20世紀における最も重要な独立映画100本のうちの1本に選ばれたことで、近年では主に海外のフェミニズム映画愛好家のあいだでアレマン再評価の流れが活発になってきている。実際、私がアレマンと出会ったのも、この再評価の流れがきっかけなのだが。
そんな再評価の契機にもなった本作においてアレマンが試みているのは、主体と歴史、そして映画そのものの語りの形式に対するラディカルな再編であるように思われる。

まず、本作のあらすじについて簡単に説明すると、歴史家の主人公エリザベスが、19世紀の社会改革運動家・フェミニストのフローラ・トリスタンの足跡を辿るためにフランスのリヨンを訪れる旅路を描いた物語だ。劇中において、エリザベスが古書店の貴婦人店主との会話のなかで示した“あらかじめ分かっていることを調べたくない”という、一般的な歴史研究者とは明らかに距離を取っているその姿勢が指摘するように、本作は歴史を固定された過去としてではなく、現在の身体的感覚を通じて再び経験されるものとして扱う。その際、エリザベスの歩行やカセットレコーダーによる聴取、ノートに記録を付けるといった行為は、必ずしも歴史的事実の収集といった意味に回収されずに、時間の層に触れるための感覚的な実践として機能しているとも言えよう。
また、オフの語りや引用の配置についても見逃せない。エリザベス自身によるトリスタンに関連したテクストの発話や、夫からの手紙が男性の声で朗読されるといった言葉の扱いは、特定の発話主体に固定されることなく、オフスクリーンの声として挿入され、エリザベスの現在的時間に非同期的なかたちで干渉する。こうして生じるのは異なる時間がズレたまま併存する状態であって、このような語りのあり方は、歴史を単一の視点から整序する記述の形式に対して攪乱をもたらす。言い換えれば、ここで問われているのは歴史を書く・語るという行為自体であり、エリザベスの態度もまた、既存の知を拒絶するというより、その語りの枠組みを内側からずらしていく実践として位置づけられるだろう。

しかしながら本作の批評性は、そうした歴史認識の刷新にとどまらず、むしろ決定的に作用しているのは、エリザベスが夫と娘を残して旅に出るという行為、つまりは決して描かれることのない本作の物語(あるいは旅)の出発点そのものである。というのも、本作の冒頭では父子との別れというドラマは描かれることなく、エリザベスの回想すらも挿入されずに、リヨン行きの列車に揺られながら窓の外を眺める彼女の目線を体現したファーストショットから始まるためである。
この設定は、従来の映画においてクリシェ化されてきた「男が家庭を離れて放浪する」というドラマトゥルギーの既成パターンを明確に裏返すものだ。より詳しく言えば、この場で行われているのは物語上の単なる役割の反転などではなくて、家父長制的な物語構造が前提としてきた主体の位置、すなわち「移動する主体=男性/待つ主体=女性」という配置そのものに対する脱構築であり、疑いようもないほどにアクチュアルなアクションなのだ。
エリザベスは、自身がなぜ旅に出たのかを説明しないし、その動機は心理的にも社会的にも明確化されないが、この非説明性によって従来の男性的放浪譚に付随していたロマン的・実存的意味づけは剥奪される。結果として彼女の移動は、自己実現や逃避といった既存の語彙では回収できない、あるいはされえない、より不確定で開かれた運動として立ち上がる。このとき観客はそれを例外ではなく、意味づけ以前の出来事として受け取るほかにない。

さらには、彼女の移動が都市との接触のなかで新たな意味を獲得する点も重要である。本作におけるリヨンはただの背景としてではなく、エリザベスの身体と共鳴する感覚的な場として構成されており、彼女の足音、街の喧騒、偶然の出会いといった事柄のすべてが、過去の女性であるトリスタンの痕跡と重なり合いながら、都市を一種の記憶媒体へと変容させうるのだ。ここでの都市は、男性的な視線によって征服・把握される対象から脱却し、むしろ女性的主体と相互に浸透し合う流動的な空間として現前する。言うなれば、街と女性は互いに読み合う関係にあり、その関係性自体が歴史の再経験の場となっているということだ。
こうした構造を踏まえたとき、とりわけ示唆的に浮かび上がるのが終盤の室内空間(物語冒頭でも登場した、リヨンの駅に降り立ったばかりのエリザベスが最初に訪れた駅の待合室)における、エリザベスの身振りである。彼女はヴァイオリンを手に取り、美しい旋律を奏で、固定されたフレームの中央を行ったり来たりする。その音色は外部へと拡散することなく、駅のホームを歩く人に見向きもされず、ドアの外を通過する列車の音とともに閉ざされた空間の内部で反響し、折り返される。
この状況において注目したいのは、その音楽が誰かに向けて発せられた表現ではなくて、彼女自身の身体と空間とのあいだで往復する内省的な運動として現れている点だ。都市においては歩行と聴取、そして記録を通じて外部の断片と接触していた彼女の経験が、ここでは音というかたちで内側へと折り畳まれる。だがそれは内面への回収というより、尤も正確には、外部で触れてきた断片の累積が身体を媒介として再び現在に響き直す契機となっている、そのように形容したほうが適切かもしれない。
旋律は完結した意味を持たず、ただ空間のなかで揺れ続ける。その余韻は、彼女の旅が到達や解決に至らないことと正確に呼応しており、意味の確定を拒む運動としての本作全体の構造を、限りなく凝縮されたかたちで示しているのではないだろうか。

このような「女性の旅」のあり方を考えるうえで本作は、アニエス・ヴァルダ『冬の旅』や、ニュー・ジャーマン・シネマの嚆矢とされるアレクサンダー・クルーゲ『昨日からの別れ』、あるいは世界的なフェミニズム映画作家シャンタル・アケルマンの『アンナの出会い』『私、あなた、彼、彼女』といった作品群とは自然に接続されうる。また、本作の状況とは真逆の「家に固定された女性」を徹底的に描き出し、移動できない状態を問題化した傑作『ジャンヌ・ディエルマン(以下略)』と本作をめぐる試論として展開することも可能だろう。
しかし私は、以上の既存の系譜からは距離を取りつつ、本作をマーガレット・テイト『Blue Black Permanent』との比較において新たな可能性を見出した。
テイトの作品においてもまた、旅や探求は重要なモチーフであるが、それは主として母と娘の関係性の内部に向かう運動として描かれる(例えば、ローマでの映画制作の研鑽を経て帰郷したテイトが、自身の母の老いゆく姿を詩的に捉えた短編ドキュメンタリー『A Portrait of Ga』などに顕著である)。それは『Blue Black Permanent』も例外ではなく、娘バーバラの探求は母グレタという存在を理解しようとする試みであり、その過程で「母なるもの」は自然や詩、記憶と結びついた根源的イメージとして立ち現れる。要するに、『Blue Black Permanent』における旅・探究は、外部空間を彷徨う運動というよりも、内的・記憶的空間への潜行であると言って差し支えない。
他方で、本作におけるエリザベスの旅は、都市という外部空間への物理的移動として展開されるわけだが、その実態はやはり内的な再編成のプロセスでもある。この両作の差異は、「女性の旅」という経験が移動の形式に還元されるものにとどまらず、内面性との関係のなかで多様に構想されうることを示していると考えられる。
『Blue Black Permanent』では、母という存在が一種の記憶的重力の中心として機能し、娘の探求はそこに向かって引き寄せられる一方で、本作においてはそのような中心的存在は意図的に空洞化されている。エリザベスは自分の子どもを持った母であると同時に、劇中では触れられることこそないが確実に誰かの娘でもあって、そのどちらの役割にも回収されない位置、つまりリヨンに身を置き続ける。つまるところ、そのための「旅」なのだ。彼女の旅は、血縁や記憶の回路に回収されることなく、そのどちらの手も届かない場所における断片と偶然の連鎖のなかで、ただ持続する。
この違いは、フェミニズム映画における主体の捉え方の差異として読むことも可能だ。すなわち、『Blue Black Permanent』が関係性のなかで生成される主体を描くのに対し、本作は関係性からも逸脱し続ける主体を捉える。そして本作においてはその逸脱こそが、家父長制的秩序に対する最も根源的且つ鋭利な批判として作用している。

最終的に本作が提示するのは、女性が旅をすることの意味を問い直すだけではないことは、これまでの論考の中で示してきたつもりだ。結局のところ、それは「旅とは何なのか」「主体とはどこにあるのか」という問いそのものを解体し続ける反復的運動に他ならない。
先述した通り、本作の終幕は、エリザベスが駅の待合室でヴァイオリンを弾きながら映画自体も徐々に幕を下ろしていくというものなのだが、ここでふと観客の内側にある一つの疑問が浮上する。それは、なぜエリザベスは物語の最後に再び駅を訪れたのか、という極めて必然的な疑問だ。しかし映画はそこで終わってしまうため、仮に旅に満足したエリザベスがそのあと父子の元へと帰る決意をしたのか、はたまたこれからも行く宛てもなく風に導かれるがままに放浪の旅を続けるのか、あるいは彼女はそもそも駅になど行っておらず、あの一人の女性とヴァイオリンと誰もいない待合室が織りなす霊的空間は、彼女の精神的観照が映像として現れたものだったのか、などといった観客の疑問や推測に対する返答はいつまでも返ってくることはない。それゆえ、これも先述したことだが、エリザベスの彷徨は明示的な到達点を持たず、安易な解決に至ることもなく、物語的なカタルシスを与えない。その未完性が、従来の映画文法が前提としてきた意味の安定性を揺るがし、観客に新たな思考の回路を切り開くのだ。

1982年にはPreis der deutschen Filmkritik(ドイツ映画批評家賞)も獲得している本作が、いまだ広く知られていないという事実は本当に惜しまれるべきことだ。ただ同時に、その理解されにくさこそまさに本作の批評性の証左でもあるのだろうと思う。ここで提示されるのは、あらゆるものに回収されることを拒む女性の静謐な運動であり、それは映画史において繰り返されてきた物語の形式そのものに対して、静かだが確実に、決定的な亀裂を走らせているのだから。