まぬままおま

市子のまぬままおまのレビュー・感想・評価

市子(2023年製作の映画)
3.8
過去を取り消すことの不可能さと「ただの」助ける。

本作が、市子が「市子らしく生き抜く」といったアイデンティティーの承認の物語になっていたら、釜山国際映画祭に出品されることはなかっただろう。そうではなく、現実の社会問題を劇として現前させたのだから、それは素晴らしいことのように思える。

以下、ネタバレ含みます。

市子は一緒に暮らす長谷川義則と結婚の約束をして幸せに浸っている。しかし彼が仕事から帰ってくる間に、失踪する。彼には理由が分からない。結婚に不満があったとは思えない。だから義則は釈然としないなか、警察と共に捜索をする。

義則は警察との捜索の中で、市子の過去について全く知らなかったことを思い知らされる。市子がどこの出身で、何歳で、本当の名前が何であるかも。そして捜索を通して、市子の身元の分からなさは、彼女のアイデンティティーが揺らいでいるからではなく、社会問題が原因であることが明らかになるのだ。

市子の過去は悲惨だ。彼女はシングルマザーの家庭に生まれて、その母もまた夜職に就いてる。典型的な貧困世帯だが、さらに市子は母の離婚後すぐに生まれた子どもであり、嫡出制度の「欠陥」によって無戸籍児なのだ。そして市子の妹の月子は、筋ジストロフィーの病を患い重度障害者である。そんな彼女たちは、母が福祉支援職員の小泉と「恋仲」となったり、市子がヤングケアラーとして月子を世話することで何とか生き延びている。このように本作は、無戸籍児やヤングケアラー、福祉制度の欠陥、そして市子の現在の行動としての「失踪」といった昨今の社会問題を十分に取り扱い、悲惨な状況を描いている。

さらに市子の過去をみていると、ひとつの行動に注視したくなる。それが、ただの助けである。

市子にも救いの手を差し出すひとはいる。それは小学生時代の友達であり、高校生時代の北秀和であり、福祉支援職員である。彼らはただ助けたいという気持ちで彼女と関係していく。しかし悲しいことに市子は、生き抜くために他者と利害でしか関係できないために、ただ≒タダの助けを受け取れない。
それが象徴的なのは、小学生時代の友達とのエピソードだ。彼女は市子に学校で男子にからかわれたことから救ってもらったお返しに家に呼んで、ケーキを振る舞う。そしてお揃いの服を買ってあげる。それは見返りを求めない感謝としての「助け」だ。けれど、市子は裏の意図を勘ぐって、「罪」を犯す。友達の家ではお菓子を盗み、服を買ったデパートではたまごっちを万引きする。嘘もいう。それは生き抜くためや、服の代わりに利益を差し出さないと友達になれないという利害関係に基づいた市子にとって健気で合理的な思考なのだが、失敗するのである。

彼女がそのようにただの助けを利害関係に回収して行動するのもあながち間違いではない。ただの助けは容易に利害関係やそれに派生する関係に転じる。そしてそれが福祉の届かなさに関係してもいるんだと思う。

最初は北秀和も市子をただ助けたかっただけだと思う。それは事実だと思う。しかしただの助けは、「俺だけが市子を救える」といった彼の自己肯定感を高める利害関係や、彼女に好きになってもらいたいといった恋愛関係に転じる。そして共犯関係にも。
福祉支援職員の小泉もそうだ。最初は市子の家族をただ助けたかったのだと思う。けれど、母の働くスナックにも行けて「親密な」関係になれたと思った途端に母との恋愛関係、さらには市子への性加害に転じる。

そして市子もまた。市子はヤングケアラーとして月子をケアするが、そのケアは月子から全く見返りの得られないただの助けだ。感謝もされなければ、彼女の人生が好転するわけでもない。その時、市子のただの助けもまた利害関係に収束し、月子の殺害といった犯罪に転じてしまう。そして小泉の殺人でも。月子の殺害が、母から手間を減らせたという点で感謝されるのがあまりにも皮肉だ。

このようにただの助けは、容易に利害関係に転じる。そして市子はただの幸せを受け取れず、さらに犯罪行為を重ねて、失踪し法外状態に置かれることを加速させていく。けれどやはり私はそれでもただの助けを擁護したいのだ。
それは義則の捜索とも一致する。義則はただの恋人として市子を探している。見つけたとして彼女から見返りが得られるわけではない。だけどただ助けて、見つけたら抱き締めてあげようとする。このような利害関係に回収されないただの助けは、私たちが他者と生きていく上で重要な行動のように思えるのだ。そして現に、彼のただの助けが、〈事件〉の真相を一番明らかにしている。警察よりも北よりも。

もちろん義則のただの助けも利害関係に転じる残滓はあると思う。それが明らかなのは、二人の出会いのシーンだ。義則が祭りの屋台で買った焼きそばを、市子にただ≒タダあげる。市子はただでは受け取らず、金銭を支払おうとするのだが、それによって、二人は出会い、共に食べ、名前を聞き出す恋愛関係に転じる。このように義則のただの助けも利害関係から逃れた純粋なものにはならない。けれど二人はその後、幸せに暮らしていく。結婚を決断するまでに至れる。私はそれでいいと思うし、それが他者と共に生きる現実的な有り様のように思える。

その時「ただの助け」のもうひとつの側面が浮上する。それは「水に流す」といった「許し」だ。私たちはどうしても他者と利害関係を排して生きていくことはできない。しかしその「利害関係」をなかったことにして有耶無耶にする「ただの助け」は、他者と関係し共に生きていこうとする「始まり」をもたらすはずである。

もちろん「なかったことにする許し」と「取り消す」ことは別のことだ。過去は取り消せない。市子がどんな家庭環境で生きたか、どんな罪を犯してしまったかは取り消せない。なかったことにはできない。けれど悲惨な過去に生きたことや罪を認めて、許すことはできる。

だから物語の結末では、市子がさらに犯罪を行い彼らを「水に流して」さらなる法外状態へと放擲するのではなく、「許し」がほしかった。それは罪をなかったことや取り消すことではない。それは警察に捕まり、収監されて罪に対して法で裁かれる「許し」だ。そうであれば市子を失踪から見つけられるのではないか。そしてその時はじめて義則と市子は結婚という婚姻関係に転じることが可能になるのではないだろうか。義則はきっと市子の出所を待ってくれる。そんな未来を描くことをこの物語は許してくれるはずだ。

***
そうはいっても本作が釜山国際映画祭で最優秀作品に贈られるキム・ジソク賞を受賞できなかったのは分かる。それは撮影・編集が良くなくて、画面アスペクト比がシネマスコープであることも全く生かされていないからだ。
本作は手持ちカメラでのショットが多い。それは義則と共に〈事件〉を追従する運動を観客に与えるためだと思われるが、撮るべきものが撮れてない。義則が市子に結婚を持ちかけるシーンでは、彼らが口元に食べ物を持って行く動きがカメラに収まっていない。それは義則演じる若葉竜也の演技の持ち味が生かされていないことも意味する。さらにそれは義則がキキの元へ行き、聞き取り調査をした後に、原付に乗るショットにも言える。このショットはワンカットで凄いと思いつつ、手ぶれがひどいし、全然上手く彼が撮られてない。それは若葉竜也が原付を猛スピードで走らせる「大胆さ」によるものだと思うけど、その大胆さを上手く撮れよと思ってしまう。

このように手持ちカメラで撮影する意味作用は、意図が何となく分かりつつもファーストカットは固定カメラによる海の実景ショットだから、その意味作用が分かるのも物語中盤頃からだ。しかもその実景ショットのためにシネスコがあるようで、「視点の意味」が軽減される。さらに市子が失踪している現在と過去を繋げる編集方法は、「フィルムカメラ」を利用しているのである。シネスコでフィルム??と思ってしまう。フィルムの粗い質感はフィルターを付けてやっているけれど、そのように繋げるのならまずは画面アスペクト比をどうするかから始めるべきではないかと思ってしまう。

照明も顔が暗いと思ってしまうし、カットバックでの音の違いも少し気になる。このように技術パートの不十分さが目立つのが惜しいところ。