晶

悪は存在しないの晶のレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.0
正直、観終わった瞬間は監督に見下されたような気がして腹立たしかった。
むかむかしたので、隣の客にだけぎりぎり聞こえるような小声で「わかるかい」と悪態をついた。ただ、そこまでは素晴らしく良かったので、良かったことをつらつら書いたあとで、ラストについてちょっとだけ考えたい。

素晴らしい撮影でのめちゃくちゃ退屈な薪割り&水汲みムービーを長々と見せられてからの、グランピング施設建設の説明会のシーンは、軽薄な都会人が村人にやりこめられるという構図の分かりやすさもあって、とっても良かった。このまま終わりまでアートムービーで行くのかと心配したけど、意外としっかりエンターテイメントじゃないの、とニコニコになれた。
だんだん不機嫌になる建設側上司タカハシの社会人としての未熟さと、声質から地味で気弱かと思ったら意外と理知的に司会を進めていく部下マユズミの頼もしさとの対比もいい。
主人公・タクミの自分は施設建設に反対ではないが環境とのバランスが大事だというフェアな態度もいかにも主人公らしく、この時点でこのグランピング施設建設を巡っての対立関係のストーリーに全身全霊で乗っかった人も多いと思う。
ここでの悪はまぎれもなく、村人なんていくらでも言いくるめられると高をくくってやってきたタカハシとマユズミだ。しかし、都会に帰った彼らを待ち受けていたのは、適当な指示しか出さない糞コンサル野郎と志の低すぎる社長だった。タカハシたちはこいつらの思いつきみたいな浅はかな指示のせいで現場でつらい目に遭ってた被害者だったのだ。
村人の前で浅いポジショントークしか出来なかったタカハシ達は、実は自分らのポジションを守ろうとするだけの薄っぺらい口先野郎たちに日々苦しめられる被害者だったのだ。こうなってくると、悪とは都会そのもの、資本主義そのものという気もしてくる。
続いての、再びタクミに会いに行くタカハシたちの車中での長時間の会話は、おそらく観客全員が大好きなシーンに挙げると思われるこの映画で最も楽しい場面だ。立場しか描かれなかった二人のこれまでの人生がちらちらと垣間見え、この二人のことが好きになる。
かなりの長時間なのに後部座席からのショットのみで構成され、まともに顔が映らず、さらにはほとんどストーリーに関係がない会話が続くこのシーン。それなのに、というべきか、だからこそ、というべきか、この二人の登場人物が、あまり輝かしくもない人生をどうにかこうにか生きている、自分達と同じような存在なのだなと思わせてくれる名シーンとなっている。
ここで観客は間違いなくこの二人にライドしたはずである。そして、ここから後半戦、この二人とタクミとの微妙な距離感での交流が始まるのである。
タカハシがタクミのアドバイスで薪割りを初めて成功させるシーンは、本当にミラクルが起こったような気持ちよさが伝わってきて素晴らしい。長回しとはかくあるべき。師匠格である黒沢清監督の「回路」の有名な飛び降り自殺シーンを思い出す。快不快で言えば全く逆の感情だが、カットが割られていないことでライブ感、現実感が跳ね上がっている。
そして一緒にうどん屋行ったり水汲みをしたりという交流の中で、人生に迷っているタカハシは一方的にタクミに心酔していく。
マユズミがとげのある植物で怪我をし、その手当をしているうちに、タクミの8歳の娘が行方不明になるという、田舎迷子、つまりはとなりのトトロ的なクライマックスとなっていく。・・・・そして、問題のラスト。

ラストについて、一応、自分なりに考えたことは以下のようなことだ。
この作品は、フィックスでのロングショットで薪割りの様子を長時間見せたり、人物が水を運ぶ移動の様子を人物が画面から見切れるまでじっくり見せ続けたりと、まるで監視カメラの映像かと思うようなショットが多用される。
かと思えば、山に生えた山わさび視点からのショットや、地面の鹿の死骸からの主観ショットといった、普通では考えにくい視点でのPOVショットが二か所。鹿の死骸からのものに至っては、驚いたことに、去って行く3人を目で追うかのようにパンまでする始末だ。視点の主は完全に白骨した死骸だってのに。
また、タクミの車での移動時は、前方でなく何故か後方車載カメラの映像だけが使われている。そのため絵面の印象として主体的にどこかに進んでいるというよりは、どんどん遠ざかっている、どこかに連れていかれている、といった印象になっている。
もう一つ、前半にタクミが山の中で先に帰った娘を発見しおんぶするという場面がある。おそらくドローンを使った横ドリー撮影だと思われるが、山を歩くタクミにつけパンしつつ、いったん遮蔽物でタクミが見えなくなる。しかしカメラはそのまま同じスピードで横移動を続け、遮蔽物がなくなり再びタクミが見えた時にはタクミは既に娘と出会いおんぶして歩いているという、まるで時間が飛んだような不思議な印象を残す場面になっている。

何が言いたいかと言えば、このやや不自然とも思われるカメラワークは何のためのものだろうか?ということである。
「何者かが観ている」ことを強調する表現として、使われていたんじゃないかと考えてみた。
何者か、を、あえて(監督のキャリア的に)村上春樹的な世界観で考えてみると、例えば羊男の住む世界のようなものがこの映画の背後にあると考えるなら、ラストに出てくる(実際にそこにいたかどうかはよくわからない)鹿の親子が自然界代表として、我々と同じように人間達の所業を、ずっと見ていたと考えることも出来る。
そう考えればラストシーン第一段階の理屈は、人間達が山から何かを奪うのであれば、同じくらいの価値あるものをこちらにも渡してもらわねばならない、バランスは取られなければならないのだから、という理屈になる。
だから娘はあの場面で、子鹿が撃たれたと親鹿に示されそれを了解し、説明会でバランスについて語った時のタクミと同じ動作で帽子を脱いで、自らを差し出した。ように見える。
タクミはその娘の行動の意味を理解し、人間の価値観でそれを邪魔しようとしたタカハシを止めた。

というのが、バランスを取ったという理屈から考えたことだが、しかしそれならただ羽交い締めなどすればよいだけでチョークスリーパーである必要はない。
「何者かが観ている」
この何者かが何かと言えば当然、観客である我々でもある。
我々は映画という語りの中で必然的かつ特権的に「神の視点」を持たされている。
この特権的な神の視点の中で我々は、タクミの言った「バランス」とは何かを具体的に見ていくことになった。
タカハシ達がただの悪でなく、社会に生きる一般的な人間だと知ることも出来たし、自然から見た人間という存在の異物感みたいなものもほのかに感じることが出来た。
そして、ラストシーンに至るまでの段階、具体的には車中での会話と初めての薪割り成功の場面を経て、我々は多かれ少なかれ、タカハシに感情移入させられている。
タカハシの視点から見れば、師匠と仰ぐタクミから娘を奪う存在がいれば、それは悪に違いない。神であれ、羊男的な何かであれ。
一方、タクミは、前述のようなバランスを取る役を娘が担ったことを了解している。誰か知らない人間が撃った銃弾の責任を同じ人間の誰かが取らなければならないと理解している。つまり、悪は存在しないことを理解している。
ゆえに、タクミはタカハシを襲い、その視界を奪ったのだ。何故ならタカハシこそこの時点での我々観客の視点となっているからだ。実際、襲われてからタカハシが気絶するまで一度もカメラは娘の方を映さず、我々はその間、娘と鹿がどうなっているのかついに見ることが出来なかった。
そこで何が行われたのか?
神である観客の視点を塞いだならば、いつの間にかタクミが娘と出会いおんぶしていたあの場面のように、本当にどうなっていたのかは時間が飛んだように誰にも分からない。
突然霧が覆い、娘が死んでいるのかどうかもはっきりと提示されないまま、タクミは娘の身体を抱いて夜の森に消えていく。
取り残されたタカハシは、我々と同じように文脈の分からぬ疑問符の中で再び地面に倒れるしかない。
そして、本当のラストショットである、夜の森を見上げどこかに進んでいる視点は誰のものかと言えば、これはタクミに仰向けで運ばれている娘のもの以外にはあり得ない。
娘は生きて、夜空を見上げている。
タクミは、神である我々観客の視界を奪うことで、娘を救ったのだ。





ま、わかんないけど。
晶