浅野いにおから『ドラえもん』へのカウンターパンチ。
JKの日常という「究極のマンネリ」を揺るがす未確認飛行物体の飛来。
現代の日本に突如として現れて沈黙したまま浮遊してると確かに日本人ならそれすら日常にしてしまいそうというのがリアル。
「なんかヤバい事が起こってる」感覚は持ってるのに実際に何か行動を起こす訳でもなくただただ静観する我々の国民性。
異国で戦争が起ころうが、政治に労働力を搾取されようが全て見て見ぬ振りをする日本人。
地方で大災害が起こったり外出禁止令が出たり、日常を脅かされて初めて声を上げる日本人。
臭いものには蓋をする日本の特性をエンタメとして切り取った『デデデデ』。
設定から秀逸。皆が無意識下にしてしまっている究極のあるあるなのだから。
兎角、日本は「変わらない日常」=「究極のマンネリ」への憧れが強い。
『サザエさん』『ドラえもん』『ちびまる子ちゃん』『クレヨンしんちゃん』『笑点』『笑っていいとも!』『SMAP』。
変わらぬ日常を感じさせるコンテンツが大好物である一方で、それは同時に変化を受け入れられない脆弱さと背中合わせであることの現れだ。
戦後、我々が死に物狂いで手に入れた「治安の良さ」と「安定感」に今もすがっている精神性が、宇宙からの侵略というSFによって丸裸にされる。
隠すこともしないほど『ドラえもん』のパロディである『イソベやん』。
その繰り返される毎日の安心感を崩壊させる「何か」が静かに確かに迫ってくる前編。
女子高生という「ぬるま湯」から「大人」になる変革の時期に重ね合わせることで、変化への恐怖とその尊さ、儚さ、青春が浮き彫りになってくる。
「青春」=「未来への希望が閉じていく時期」。
それでも閉じた未来で強く生きている大人が沢山いて、今の世界がある。
そこを受け入れるか受け入れないかで揺れる狭間の年齢の感情。
やはり、浅野いにお先生は子供から大人になるサナギの季節を描くのが上手い。
この熱量で語っておきながら僕は原作未読勢。
どんな形でおんたんとデーモンが孵化して羽を広げるのかを描く後編に期待が止まらない前編だった。
声優、作画のレベルの高さは言うまでもない。