浦切三語

熱のあとにの浦切三語のレビュー・感想・評価

熱のあとに(2023年製作の映画)
2.3
いま話題の小学舘。その小学舘から発刊されている『ホス狂い ~歌舞伎町ネバーランドで女たちは今日も踊る~』には、本映画のモデルになったホスト殺害未遂事件の一部始終が詳細に書かれつつ、そこには担当ホストに多額の売掛金を払うために立ちんぼや風俗に身をやつす新宿歌舞伎町の女性たちのインタビューも掲載されているんだが、この本の中にホスト狂いをなぜ止めないのか遠回しに聞かれた女性が答えるシーンがある。以下に一部を抜粋する。

「私と彼らの〝本当の関係〟を、私たち以外に一体、誰がわかるというのでしょうか。私たちが、どこで何を話して、その時の空気がどんなものだったのか、それは私たちだけにしかわからないこと。誰にも立ち入られたくないし、何も知りもしないで、言われたくないな……って思う。そんな私はまちがっていると思いますか?」


話を映画に戻すと、この映画は一言でいうなら「イカれている」映画だ。イカれていて小賢しくて、頭でっかちの映画である。主演の橋本愛は常に死んだような表情でスクリーンの世界を徘徊し続け、その青白い唇からこぼれ落ちるのは、頭の中でこねくり回したような、屁理屈と過度な形容によって装飾された力なき言葉たちである。そしてこれは橋本愛に限らず、この映画に登場するキャラクターは、みんな(年端もいかない子役に至るまで)観念的でスノッブでキザでイキった直感的に捉えにくい台詞を平気な面をして吐き出しまくる。

これらの台詞は説明台詞にすらなってない。そもそも説明台詞とは文字通り、画面の中で起こっている出来事を補足し、説明するからこそ説明台詞たりえるのだが、この映画では画面を補完するための言葉は皆無であり、登場人物の頭の中を観念的に説明するに留まり続ける。演出の非現実感、プラネタリウムを見ている最中にずーっと喋りっぱなしなのに誰からも注意されず、主人公の心情を代弁するかのように、真っ暗闇の中で子供のすすり泣きが環境音として鳴り響き続けるという「イカれている、わけのわからない」演出の数々が意味するのは「ホストと姫」すなわち「ホストの色恋営業にハマってしまった女」とホストとの、この関係性が結局のところ外部の人間からは「わからないもの」として描くための、映像と台詞が合致しないチグハグな演出であるということだ。だから彼女たちは、私たち観客にとって非常に取っつきにくい言葉を延々と吐き続ける。

人間同士の関係性なんて、結局のところ当事者以外には誰にもわからない。それはたしかにそうだろう。だけれども、これは映画だ。その関係性の中に映画のドラマはあり、ドラマのない映画はただただ退屈で自己満足の領域を出ないんじゃないか。勝手に監督の頭の中で完結しているから、愛を巡る関係性の描写がどうなっているかと言えば、ホスト側から女に向ける愛はろくに描かれず、女たちだけが「愛が愛が」と口煩く喋り倒す、一方向の愛だ。こうした愛についての問答を監督の頭の中で勝手に完結させておきながら、信仰による救いだったり、戦争だったり、それっぽい「使える」社会的テーマを中途半端に盛り込んで、おまけになぜか「太陽がいっぱい」「失楽園」のオマージュを盛り込んでくる。最近こういう濱口竜介に影響されてますって感じのスノッブな映画、増えたな~。ま、こうしたイカれている演出の数々で人間の関係性を「わからない」ままほっておくのは、それははっきりいって怠惰と切り捨てられても文句は言えまい。

そもそも、監督は重大な事実を見逃してる。この映画の元ネタになったホスト殺害未遂事件は「新宿歌舞伎町」で起こった事件であり、そして、この手の事件……女がホストを刺したのなんだのという事件は事件化されないだけで、歌舞伎町では頻繁に起こっている。なぜ事件化されないのかと言えば、罪悪感を感じた女の子がまた店にやってきて太客になる可能性があるからホストが通報しないのだ。そうした、人間の関係性、人間の愛という目に見えないものすらも金に代えてしまう「新宿歌舞伎町」という町の特殊性に目を向けずして、人間の観念的な部分だけで、色恋営業にハマった女の愛だのなんだの描いたところで、それはどこまでも空虚なものでしかない。もしかしたら監督はそれを狙ったのかもしれないが、だからといってこの映画がつまらない「イカれた映画」であることに変わりはない。
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