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目次
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『The Annunciation of Marie(英題)』に投稿された感想・評価
KnightsofOdessaの感想・評価
2023/11/16 22:50
5.0
["見えないこと"の反復の中にある"見えること"の神聖さについて] 100点
人生ベスト。俳優アラン・キュニーの残した最初で最後の長編作品。ポール・クローデル「マリアへのお告げ」の映画化作品。キュニーとクローデルは友人関係にあったらしく、晩年には彼の妹を題材にした『カミーユ・クローデル』で二人の父親ルイ=プロスペル・クローデル役を演じている。物語は原作と同じく主人公ヴィオレーヌが聖堂建築家のピエールと別れる場面から始まる。目を隠すように黒いハットを深々と被って馬に乗るピエールを正面から捉え、すると画面左下から両手の人差し指で作った十字が"止まって"という声とともに現れる。突き抜けた聖性を体現するヴィオレーヌと共に、この映画にも突き抜けた聖性を与えた瞬間だ。その後も、皆が心の内を悟られぬよう、目を伏せて帽子で隠し、カメラに背を向け、カメラと別の人物の間に立ち、背景は平たい壁/アレクサンドル・レクヴィアシュヴィリくらい空の見えない森/見渡す限りの雪原に覆われる。また、特に前半で、そこにフレーム内フレームが加わって、見せない/見えないの奥に見える景色を足していく。中盤の雪中シーンなんか、ヴィオレーヌもマーラも着込みすぎてミシュランマンみたいになってて表情も動きも何も確認できないが、二人を俯瞰で捉えた映像だけで静かに圧倒してくる。大人たちが背を向けることで、抱かれている子供がカメラを見ているのも良い。ヴィオレーヌ父の"これからは女性たちと新たに生まれた子供たちの時代だ"という言葉にも呼応している気もする。見せないこと、見えないことを徹底して繰り返すことで、ふと目が合う瞬間に聖性が宿り、それによって物語を牽引していくというパワフルさが凄まじい。本筋と全然関係ないが、序盤でアンリ・ルソーの絵をそのまま再現したみたいなショットが登場してひたすら感動した。
#2023ofOdessa
#オールタイムベストofOdessa
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たはら戦士の感想・評価
2026/01/08 06:55
5.0
祈りと沈黙の呼吸が息づく場所。
まず初めに、私は本作『L'Annonce faite à Marie(原題)』に触れるまで、俳優であり本作の監督であるアラン・キュニー氏について詳しく知らなかった。
というのも、彼の演技で唯一印象に残っているのは、カルネの『悪魔が夜来る』に登場する若い吟遊詩人ギルの役ぐらいだろうか(調べてみると、アゴスティの『カーネーションの卵』にも出演していたらしいがこれには気づかなかった)。
しかし、この衝撃的な映画体験を通して、ここに心からの敬意を表したいと強く思う。
そんなアラン・キュニー氏の遺作にして唯一の監督作品である本作は、映画という形式の内側で「慈悲」と「祈り」がどのように息づくことができるのか、ひいては「信仰」の極限を問う試みである。
オリヴェイラ『繻子の靴』などの原作者としても著名な、20世紀フランス文学を代表する詩人・劇作家のポール・クローデルによる同名戯曲『マリアへのお告げ』を原作に持つ本作は、いわゆる信仰の劇ではなく、信仰そのものの現前を描こうとする。
そこにあるのは単なる物語ではなく祈りの運動、言葉の発せられる前に、あるいは言葉が赦されるように沈黙へと戻る、その運動の痕跡だ。
本作の舞台となるのは十字軍遠征時代。
クローデル的カトリック神秘主義を織り交ぜながら、三人の若者(ヴィオレーヌ、ジャック、マーラ)の愛と悲劇、信仰と嫉妬、罪と告白、そして赦しと自己犠牲の物語を描いている。
ヴィオレーヌはハンセン病に冒された聖堂建築家ピエールに深い憐れみと慈愛を抱き、彼に口づけを与えてしまうのだが、結果として彼女は病をうつされ、社会的にも「穢れた存在」となる。
そこから祈りの物語は始まり、ピエールとの別れ、ヴィオレーヌとその婚約者ジャックのあいだに生じる悲劇、マーラの歪んだ嫉妬と内省、そしてヴィオレーヌが病に冒されながらも神の愛を信じ続ける姿を通して、人間の痛みと神の恩寵の交錯が示されていく。
この映画を体験するとき、我々はまず宗教的な「沈黙」に出会うだろう。それは本作を構築するショットのすべてが、まるで荘厳たる宗教画に等しい美を帯びているからであり、同時に、光が差し込み、風が通り抜け、手と手が重なり、人の顔がそこに在るというそれらの出来事は、いずれも神の名を直接告げることなく、しかし確かに神の現前を予感させる瞬間であるからだ。
ひいては、聖性はここで神学的主題としてではなく、感性の奥底に染み入る気配として映し出され、まさに神の不可視性・超越性を示すと同時に、信仰の本質が神の言葉や奇跡に依存するものではなく、人間の内面的態度や祈りの姿勢にこそ宿るという教義的洞察にも接続される。
すなわちそれは、神が語られないという場合でのみ語られる逆説的な沈黙の神学としての提示に他ならない。
クローデル的な言説を借りれば、信仰とは世界の裂け目に生まれる光のようなもので、キュニーはその裂け目を俳優たちの表情や視線のあわいに見出し、キャメラは決して劇的な瞬間のみを強調せず、むしろ余白の方へと引かれていく瞬間もある。
祈りの姿勢、赦しを乞うまなざし、言葉にできぬ痛み、それらを過剰に説明することなく、ただ光の振る舞いとして受け取るというその潔さこそが、本作の深い敬虔を支えているのだ。
キュニーの描く聖性は、超越へと向かう垂直の運動ではなく、あくまでも水平的な広がりのうちに息づく点において、真の意味で神の輪郭を捉えようとする。
つまりは、神は高みにいるのではなく、人が触れられるほど地表に近く、熟れて地面に落ちた林檎や颯爽と風に靡く草原、どこか寂寥とした雪原、果物と食器が並べられた食卓、人の涙とともに密接に在るということ。
こうした汎神論的な感覚は、タルコフスキーないしジャン=ダニエル・ポレなどの作家との親和性を持つが、それはクローデルが言語のなかで提示した観念をキュニーが物質と現象の次元へと降ろすことで初めて成立しうるものである。
本作に漂う聖性の質は、神を語ることよりも、模索の果てに神を悟ることに近い。
神学者ラインホールド・ニーバーの有名な「平安の祈り(ニーバーの祈り)」には、次のような言葉がある。
“神よ
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。”
(訳:大木英夫)
この祈祷文が表しているのは、世界と自我のあいだに生じる限界の感覚だが、キュニーの映画はまさにその限界に立ち続けている。
彼のキャメラは運命的ななにかを変えようとはせず、救いを劇的な行為や神の奇跡として描くのではなく、変えられぬ現実を抱えたまま、静かにそれを受け入れる者たちの姿に「平静」を見出し、変化ではなく受容、力ではなく沈黙を示す、そうした姿勢が「ニーバーの祈り」と深く共鳴しているように思わずにはいられない。
ヴィオレーヌが病と孤独のうちに祈る場面において、聖性はもはや外部から与えられるものではなく、彼女の身体そのものが神の痛みを担う場となり、ここにおける「聖なるもの」は苦悩や堕落の反対ではなく、それらを抱きとめる包容の運動として機能し、この意味でキュニーの聖性はキリスト教的な「贖い」の思想と密接であると言えるだろう。
「赦し」とは罪の否定ではなく、罪を抱えたまま光の下にさらすことであり、「告解」とは神の耳に届くための言葉ではなく、自らの沈黙を見つめるための行為なのだ。
そして物語のなかで唯一明示される「奇跡」というのが、マーラの死産した赤子が復活するという場面である。
この出来事は、一見して聖書的奇跡の再演として理解されるが、キュニーの映画においてそれは超自然的な力の誇示ではなく、「赦しが成立する瞬間」を可視化するための、ほとんど沈黙に近い徴として置かれている。
とりわけ重要なのは、この奇跡が信仰の強度によって引き起こされたのではないということだ。
子供を亡くしたマーラは、神に対する祈りによって救いを求めるのではなく、まず姉であるヴィオレーヌのもとを訪れ、自らの罪を告白する。嫉妬、憎しみ、裏切り、そして後悔と自責、彼女が抱えてきた感情が言葉として吐き出されることで、初めて神の前にマーラの罪が晒される。
ここで行われているのは決して奇跡の要請などではなく、純粋な「赦しの秘跡」である(カトリック神学において、赦しの秘跡とは罪が帳消しにされるご都合主義の魔術的行為ではなく、それは罪を犯した主体が自らの闇を言葉にし、それを他者と神の前に晒すことによってのみ断絶した関係が回復されるというプロセスであり、キュニーの場合はこの秘跡を制度としてではなく、身体と沈黙のドラマとして描いている)。
マーラの言葉は激しく、ほとんど錯乱しているが、それでもなお彼女は赦されることを求めて姉の前に立つ。その瞬間、赦しはすでに始まっているのだ。
さらにはここでヴィオレーヌ自身も、決して奇跡を起こす主体として描かれてはいない。
彼女は病に蝕まれ、社会から排除され、もはや能動的な力をほとんど持たない存在だが、その無力さこそが決定的であり、彼女は裁かず、拒まず、条件を提示せず、ただ沈黙のうちにマーラの罪を受け入れる。
この姿勢は神の代理として振る舞う聖人の態度ではなく、キリスト的受容として本作の主題を体現する態度そのものであり、罪を断罪することなくその重みを引き受ける身ぶりに近い。
そんななかで私が最も衝撃を受けた、本作を象徴するシークエンスとその文脈についても話したい。
それが、巡礼者としてエルサレムへ旅立つアンヌ(アラン・キュニー自身が演じるヴィオレーヌとマーラの父)の後を、隔てられた壁に沿って撫でるようにヴィオレーヌが歩き、トラッキングショットもその運動に連動するかの如く水平に移動していくという、わずか数十秒ながらカメラ運動と俳優の身体が感動的なまでに共振しているシーンだ。
宗教的な巡礼(聖地巡礼)として、同時に霊的使命を果たすため巡礼に出るアンヌだが、彼の旅は単なる旅行などではなく、家族や土地といった「この世の責任」から一歩退き、自分の人生を神に委ねるという意味を持つ、極めてクローデル的な神の呼びかけへの応答の行為である。
さらに重要なのは、この父の不在が物語上において果たす役割であり、それはヴィオレーヌとジャックの関係、マーラの嫉妬と悲劇の物語が徐々に動き出すという、家族の運命を神の摂理のなかに委ねる装置として機能していること、つまりは作品全体の宗教的且つ悲劇的な展開を導く重要な契機になっているということだ。
また、ジャックとマーラの最後の対話シーンでは、キュニーの祈りの映画的構造が最も明瞭に示されている。
二人は互いを責めることも過去を正当化することもなく、ただ傷つけ合った事実の前に静かに立ち尽くし、抱きしめ合うのだが、その沈黙は赦しの言葉を待つための間ではなく、言葉がもはや赦しの条件ではないことに気づくための間であるように思う。
そしてラスト、巡礼から帰還したアンヌが、石造りの古屋(霊安室?)の中央でヴィオレーヌの遺体と対峙する場面において、ここでは劇的な救済の瞬間も、奇跡を証す特別な記号も存在しない。
アンヌはただ沈黙を貫き、もう二度と目を覚ますことのない娘の隣に横たわる。
キュニーはここでドラマトゥルギーの強調を避け、空間の余白と反響する音の余韻を生かしながら、二人の身体の沈黙が共鳴し合う場所に現れる共同的な祈りの地平を描き、父の罪悪感の浄化と娘への愛の承認、そして彼らの存在のあいだから立ち上る気配をも捉えていく。
その気配の正体はきっと、物語の最後に残る親と子の純粋なる魂の再会という象徴なのではないかと私は信じている。
自己犠牲の末に眠るヴィオレーヌ。
沈黙のなかで横たわるアンヌ。
その二人の姿に呼応するかのように、映画もまた幕を閉じていくのだった。
従来的な宗教倫理映画の範疇を超え、「祈りそのものの映画化」と言うべき体験をもたらす点において、本作がキリスト教義的に見ても極めて重要な作品であることは明確だ。
聖性が神学的命題として語られるのではなく、光、闇、沈黙、呼吸、言葉、告白、そして受容の姿勢、それらがひとつの運動として立ち上がるとき、それはもはやスクリーン上の出来事ではなく、我々自身の内奥における「告知」ではないだろうか。
神はここで語られることなく、その姿も現前することはない。だが、語られないというその事実こそが、最も映画的な真実の「告知」となる。 私は本作が映画史上最も美しい作品のひとつであると断言するが、それはそこに映っているものがただ美しいからではなく、そこに映っている「沈黙」そのものが、世界を赦し、世界を祈っているからである。
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helLOVEnusの感想・評価
2023/11/08 14:30
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