ワンコ

テルマ&ルイーズ 4Kのワンコのレビュー・感想・評価

テルマ&ルイーズ 4K(1991年製作の映画)
5.0
【”今”に抗うことが出来るか】

1960年代のアメリカン・ニューシネマを彷彿とさせる鮮烈さだ。

女性版アメリカン・ニューシネマといった評価もあるようだけれども、今考えるとそういった”女性”という形容がわざわざ必要なのかと思えるほど、当時のアメリカ社会の背景となった閉塞感を表していると思う。

アメリカン・ニューシネマの代表作というと、どうしても60年代終盤に制作された「明日に向かって撃て」や「イージー☆ライダー」を思い出すが、「テルマ・アンド・ルイーズ」は、これらと何ら遜色のない鮮烈さだ。

60年代は、公民権運動や女性解放運動による考え方の変化、そして、ベトナム戦争による閉塞感などが社会の背景にあった。
ヒッピーは、カウンターカルチャーの代表的なムーブメントだったと思う。

これに対して、91年の「テルマ・アンド・ルイーズ」の背景にあるものとは何だろうか。

70年代のアメリカの暗い時代を経て、80年代はやや自信を取り戻しつつあったような気もする。
しかし、日本やドイツの製造業が世界を席巻し、アメリカの労働者階級の先行きは決して明るいものではなかったはずだ。このころ、日本製品の不買運動が活発化し、アメリカファーストのような考えが頭をもたげていた。

逃避行の途中、二人の乗る車が、オクラホマ州の油田の中を通り抜ける場面はある意味象徴的だ。

映画「スティルウォーター」の物語のバックグランドでもあるが、第2次石油ショックの後、石油価格は高騰したが、その後大きく沈静化し、オクラホマ州は新規油田の採掘を制限、天然ガス田の採掘を増やす一方、電子部品製造業の誘致などを積極的に行い、石油ビジネスが不況業種となった。
しかし、その州政府の方針のおかげで、オクラホマ州はアメリカの中で裕福な州の仲間入りをした。

しかし、変化の中で、変化できない人々。

「スティルウォーター」のビルやアリソンもそうだが、テルマやルイーズもそんな存在に違いない。そして、彼女たちを取り巻く人々もだ。

60年代から70年代にかけては若者が抗うものがあった気がする。
ベトナム戦争、ウォーターゲート事件など腐敗した政治、機能しなかった金融政策による強烈なインフレ、形骸化した宗教・原理主義化する宗教。

そして、この頃の社会には変化を受け入れる下地はあったと思うが、抗いながら無力感だけが残ることも多かった。

テルマとルーズ、彼女たちの抗うものは何だろうか。

変われないものたちの閉塞感。

女性を見下す社会。
DV。
性的対象としてしか見ない男。

こうした連中も実は変われないものたちだ。

結局、何に抗うべきか、実は、根本的なところは分からずじまいではないのか。

この「テルマ・アンド・ルイーズ」の4Kレストア版が、今、公開される意味は大きいと思う。

今、僕たちが本当に抗うべきものが何か、実は分からないでいるのではないのか。

戦争は遠くで局地化し、映像は絶え間なく流れるが、いつの間にか当たり前の光景のようにさえ思える瞬間がある。

分断はネットが中心で、陰謀論や誹謗中傷が飛び交うばかりで、論点はズレる一方だ。

ビル・ゲイツは、インターネット空間は、ソクラテス問答法が繰り広げられると期待していたが、クレイジーが集う場所になり下がってしまったと嘆いていた。

株価は上がるが、豊かさは実感できないままだ。

政治家は陰でこそこそ富を蓄積し、一般の人々は税金をまっとうに支払っている。

僕たちは、何に抗うべきか。

トークショー付で、登壇者が、テルマとルイーズは生きているような気がするなんて言って気を引こうとしていたが、彼女たちの抗う心は、僕たちのなかでは、諦めの中で、既に死んでしまっているんじゃないのか。

人気の文化人をトークショーに連れ出すのは良いとして、ちゃんと筋を通して話せる人は必要だと思う。
なんでもカジュアルにしてしまう文化は文化なのだろうか。こうしたことも、事なかれ主義と同様、抗えない、エネルギーの欠如した状況の原因じゃないのか。

こんなことを書くと社会や大人が悪いと言って、また諦めのムードが漂う。
悪循環だ。

社会に飼い慣らされた人にはなりたくない。

テルマとルイーズ。
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