パングロス

ジョン・レノン 失われた週末のパングロスのレビュー・感想・評価

4.0
1980年のジョン・レノンの銃殺事件の衝撃は、いまだに覚えている。

この事件ゆえに、通りいっぺんの知識しかない私のような者にとっては、名曲『イマジン』のメッセージ性とともに、レノンについては殉教の聖人といったイメージが強い。

だから、本作を観はじめて、最初は、流行りの ” Me Too”的な、若くしてレノンにもてあそばれた中国系アメリカ人による告発劇か、さもなくば聖人レノンの仮面を剥奪することを目的とした作品かと疑いながら観ていた。


【以下、念のためネタバレ注意⚠️】





ところが、エンドロールでは、メイ・パンとジョン・レノンの間には、確かな愛があったこと、そのことを少なくともメイの方は少しも後悔していないことが、全編を反芻するなかで確かに感じられて、思わず落涙を催した。

確かに、メイ・パンは、偉大なレノンに比べても、そして、ひょっとしたらジョン以上に大きな存在であったオノ・ヨーコと比べても、歴史上の存在としては小さな人物かも知れない。

しかし、それは、ジョンの最初の子、シンシアとの間のジュリアンにしても、同じことではなかろうか。
あまりにも巨大な父を持った、小さな自分という対比に、彼も苦しめられたことがあったのではないか。

でも、本作の最後で、メイとジュリアンとがお互いに対する真摯な想いを打ち明けたかと思うと、その告白をするジュリアンのもとに老いたメイが現れ、頬を寄せあう。
その相思相愛ぶりに、途中まで「このメイという中国人に騙されないぞ」と妙に頑なになっていた気持ちは完全に雲散霧消した。

メイのジュリアンに対する愛が本物なら、ジョンに対しても本当の愛があったのだろうと、納得がいったのだった。

それにしても、本作では、メイを通して、さらにメイが語るジョンを通してしか実質的に正体を現さないオノ・ヨーコの魔女ぶりには驚かされる。

眼の前で他の女とファックして見せたジョンについて、「夫は、また浮気するから、あなたが相手になって」と20歳過ぎそこそこの小娘メイに、下命するヨーコ。
まるで、ファウスト博士にグレートヒェンをあてがったメフィストフェレスではないか。

そして、18ヶ月の、ジョンとメイとの蜜月を、セラピーを口実に引き離すヨーコ。
次に会った時には、ジョンはメイに近づこうとしなかったというから、ヨーコは本当に魔法をかけたか、催眠術をかけたか、洗脳したかの、いずれかなのだろう。

残念ながら、小さな存在に過ぎなかったメイは、ジョンにとってのファムファタールではなかった。

ファムファタールは、やはりメフィストでもあったオノ・ヨーコだったのだ。

ジョン・レノン死後の、ヨーコの勝ち誇ったような大芸術家ぶりを見よ。

いやぁ、しかし、それもヨーコのジョンへの愛の形ではあったのだろう。

ジョンは、後にメイとの蜜月の時間を「失われた週末」と呼んだ。
メイからすれば、あまりにも酷い言われようだが、それがある種の洗脳だったとしても、ヨーコのもとに帰ったジョンが至った総括だったのだろう。
ジョン・レノンも決して聖人君子ではなかったのだから。

それにしても、本作によって、「新たな愛の形」をまた知ることができた。

映画を観ることの意義は、自分の価値観を確かめることよりも、自分が想像もしなかった新たな価値の存在を知ることにあるはずだ。

ところが、Filmarksレビューを見ていても、保守的な日本の夫婦観を金科玉条として、映画の登場人物を「許せない」と断罪する意見が多くて驚かされる。

『パスト・ライブス』(2024.4.23レビュー)で、夫アーサーと暮らしているノラが幼い頃好き同士だったヘソンをNYに迎えることを「夫がいるのに無神経だ」という人がいる。
だが、ノラに昔の恋心などすでにないのだし、アーサーも幼馴染との再会を歓迎してくれている。ヘソンだって、ノラと再会して、夫婦仲を割こうなんて少しも考えていない。ところが再会してみると、忘れていた韓国人としてのアイデンティティが蘇ってきて自分でも驚いたのはノラの方だった。だから、最後にアーサーの胸に飛び込んで号泣したのだ。

『ピアノ・レッスン』(2024.3.26レビュー)では、イギリスから遠くニュージーランドに送られてスチュアートと結婚したエイダが、夫が打ち捨てた愛器のピアノを引き取ったベインズの家に通い、結果として愛を育んだことを不道徳で信じられないという人がいる。
エイダの結婚が望んだものではないこと、発話障がいで話せないエイダの言葉代わりのピアノを大切にしてくれたベインズの愛に惹かれていくことは理解してあげられないのか。

『マエストロ』(2023.12.24レビュー、パングロスの初投稿)で、結婚後も男性とのアバンチュールをやめないレナード・バーンスタインを評して、妻のフェリシアが可哀想だという人がいる。
だが、最初からレナードが同性愛をやめられないことを承知してフェリシアは結婚したことを、そして、にも関わらず、二人は終生相思相愛の深い愛情で結ばれていたことを見逃しているのではないか。
主演と監督を兼ねたブラッドリー・クーパーは、そんな夫婦愛の形をこそ描きたかったのだと読み取れないのだろうか。

世界には、いまだに一夫多妻制を認めている国さえある。
自分の知る価値観を、例えば、さまざまな「愛の形」を伝える映画を通して「相対化」すること、それが映画鑑賞がもたらす最大の恩恵だと思う。
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