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HINOKIO ヒノキオのodyssのレビュー・感想・評価

HINOKIO ヒノキオ(2004年製作の映画)
3.5
【中性としての多部未華子――多部未華子の映画を追って(その3)】

(以下は、11年前に某映画サイトに投稿したレビューです。現在、某サイトは消滅していますので、ここでしか読めません。)

私が初めて多部未華子を見たのは『夜のピクニック』だから、今から5年前、彼女が17歳の頃。最初は映画のチラシで彼女の姿を目にしてもぴんと来ず、映画を見るかどうかも決めかねていたのだが、映画館の予告編で動く姿を見て、「あ、これは一見の価値ありだな」と行くことに決めた。映画そのものはやや筋書きに難があったけれど、彼女の魅力は存分に伝わってきた。そして昨年の映画『君に届け』で彼女はその魅力を十二分に発揮してくれた。

『夜のピクニック』のチラシで彼女の姿にあまりぴんと来なかったのは、ボーイッシュな感じがあって、女の子としての魅力があまり伝わってこなかったからだろう。動く彼女にもボーイッシュなところはあるけれど、それがむしろ独特の硬質な個性となって人を惹きつけていた。開く前の花、つぼみの魅力だろうか。しかしつぼみである女優が誰でも魅力的なわけではない。

で、今回、DVDを借りてようやく映画デビュー作『HINOKIO』を見てみた。

・・・うわー、この映画の未華子ちゃん、男の子じゃん! 『夜のピクニック』のわずか1年余り前とは思えない。

でも、そういう彼女の個性というか、ボーイッシュで中性的な魅力が生きた映画、なのだよね。女の子が女になる以前の、性徴がはっきり表れる前の姿。女になることに自覚的ではない段階。或いは意図的にそれに反発している時の姿。

この映画は、未華子ちゃんのそういう魅力を余すところなく捉えた作品として見るべきじゃないだろうか。

それは単に15歳の未華子ちゃんの個性がそうだからというだけでなく、この映画の役柄がそうだからだ。役名のジュンというのは、男女どちらでもあり得る名だしね。

そして相手はロボットでしょ。これまた中性的な存在なのだ。つまり、この映画、実はユニセックスを扱っているのじゃないだろうか。男の子を演じている女の子と、引きこもりだからロボットを通してでないと他人とコミュニケーションできない男の子との、ユニセックス的な関係。

そして男女関係(というか、ユニセックスだから男男関係だか女女関係だか)は必然的に三角関係や四角関係を呼びおこす。この映画でも、未華子ちゃんに惹かれるメガネ少女や、引きこもり少年サトル君が惹かれる堀北真希ちゃんが登場する。そう、立派に?四角関係になっているのである。

そう思って見ていれば、ハチャメチャなストーリーは、まあ気にならない、んじゃないかな。

そして最後で、未華子ちゃんはセーラー服姿を見せてくれる。つまり、女になった、ってことなんだろう。でもあのシーンではサトル君(本郷奏多)はまだ幼くて中学の学生服は似合ってなかったよね。実年齢では本郷君は未華子ちゃんより2学年下で、当時の彼はまだ14歳、中学生にはなっていたわけだけど、未華子ちゃんはすでに高校生になっていたわけだから、仕方がないかな。でもあのシーンは、二人がユニセックスを脱して本格的にボーイ・ミーツ・ガールになる場面なんだから、もう少し何とか、という気がした。

年齢と言えば、サトル君の母親が原田美枝子ってのには違和感があった。年齢的には原田は32歳上だから母親でおかしくないわけだけど、本郷君が幼く見えるのと、失礼ながら原田がやや老けてみえるのとで、合わない感じ。中村雅俊が父親なのは、中村が若く見えるからまあいいんだけど。
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