このレビューはネタバレを含みます
引きでリビングが映った時に目を引くのがダイニングテーブル。「これほど几帳面な人間が、なぜダイニングテーブルを傾けることを認めたのだろうか」という思いを胸中に抱えながら作品を観ていくことになる。
あのダイニングテーブルを見ると、このテーブルが何かをしでかすに違いないと思わずにはいられない。
だって傾いているだけでなく、四辺のうち一辺は直線じゃないのだから。だからこそ、このテーブルきっと奥さんが買ったんだろうと思い込んでいた。直線でない辺に腰掛けるのは奥さんで、旦那さんは直線の辺の席に腰掛け続けるし。
ところが、夫婦喧嘩が始まるやいなや、このテーブルは旦那さんが買ったものだと言うのだからびっくり。作中では語られないが、きっとこのテーブルを買う時にも一悶着あったに違いない。だからこそ15年後に思い出として振り返ろうとしていたのではないか。
あの歪んだ一辺も、傾いたテーブルも、さらの中に残る自由さの欠片であり、とても強い反抗のように感じる。
そんなテーブルに対して旦那はフレンチの包丁だからなんかで、ワインの染みた箇所を削ぎ落とすのだから、あぁほら言わんこっちゃない。
翌る日のテーブルは90度回転している。
そして旦那が歪んだ辺に腰掛けている。
きっとここから自由が始まるのかもしれない。
【参考】
トークイベント付きだったのでメモ。
えだまめさんへの当てがきがベースになっているようで、何を描きたかったのかは監督も探しているとのこと。
何かを選ぶということは、何かを手放すということ。選んだ世界と、手放した世界とが混在する世界があの家に中に生成されていた。という山本さんの話は興味深かった。
平野啓一郎さんの『分人主義』のように、別個のアイデンティティが同時に生じてしまったときのどぎまぎした感情があった。
思えば、えだまめがピアノを弾きながら徐々にさらと同じ周波となり協調する様は、かつて自由だった世界とのチューニングだったんだなぁ。