明らかに98年版よりも映画的になっている。
映画的といっても様々な意味があるが、一意に言えば「カメラを通じた観客との接近」をより意識した作品になっていると言える。
98年版と大まかなプロットは変わらないが、元々の脚本の一部でしかなかった、撮る/撮られる(=見る/見られる)というメタ的な要素を2024年版では、黒沢清が自らの脚本として拡張して再編集している。
それはまさにラストショット、
観客側(カメラ側)をギョロっと覗き見るサヨコの目線からも明らかであり、98年版のラストが宮下(香川照之)と新島が見つめ合うショットとなっていることとの美しい対比でもある。
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「新島」(哀川翔、柴咲コウ)という人物は、98年版と24年版とで全く違うキャラクターとして描かれている。
98年版の新島は、明らかに映画全体の支配者であった。
物語を操作するハンドルは彼が握り、他のどのキャラクターも新島の意思に反することはできなかった。
新島は劇中に登場するヤクザの頭であるオオツキというキャラクターに対しても支配的な態度を取ることができる存在として描かれる。
これは自分で捕まえたはずのオオツキに狼狽する宮下の態度と全く異なる。
そんな凄みがあったはずの新島というキャラクターだが、24年版の新島サヨコという人物は物語の支配者に成り得ていない。
冒頭のラヴァル(マチュー・アマルリック)を捕まえるシーンでも彼女はただ立ち尽くすだけであり、中盤クリスチャンを襲うシーンでもすんでのところで彼を取り押さえることに成功する。
24年版の新島を女性にしたのには、そういった物理的な意味での力関係を弱める意図があるのではないだろうか。
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しかしながら彼女はやはり98年版と同様に自らの復讐を果たすことができる。
もはや物語のハンドルを握っていないサヨコがなぜ目的を達成できたのか。
それは彼女がハンドルに操作される側の一人に過ぎないからではないだろうか。
つまり、本作では新島さえも支配される側であるということだ。
本作の序盤に「3ヶ月前」という字幕が挿入され、バシュレとサヨコとの出会いを描くシークエンスがある。
これは98年版にはない場面だ。
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このシーン、とても奇妙な長回しのショットが冒頭にある。
長い病院の廊下を真っ直ぐ進む画面から、すっと右に視点が移動したかと思うと「心療内科診察室」と書かれた扉にクローズアップする。
その後、そのまま後ろ歩きするように視点が遠ざかり再び廊下の奥まで映す画面になる。
この時、実際にコツコツと歩く音がなっている。
そしてその診察室からバシュレが出てきて、彼が奥に歩く様子を画面ははそのまま追いかけていく。
その長回しの直後、ショットがカットバックして、その視点がサヨコのものであったと分かるのだが、これは明らかにおかしい。
なぜなら始めの「廊下→診察室の扉」という描写はあくまで映画としての説明的機能を果たすための映像であり、サヨコの視点ではない。
もしこれがサヨコの視点だというのであれば、彼女は一度部屋の扉まで近寄ってその前を向いた体勢のまま後ずさりし、バシュレが出てくるのを数秒待っていたことになる。
バシュレが出てくるタイミングが分かるのも不自然であるし、狭い廊下で行える行動ではない。
これはあくまで映画的なカメラの移動なのである。
しかしながら、このショットは一本の長回しである。
つまりこれは、映画的な視点からサヨコの目線へと一本のショットのなかでシームレスに繋がったことを表すショットなのである。
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本作の物語の支配者は新島サヨコではない。
98年版の新島のような明確な支配者は一人の登場人物として存在していない。
映画自体がこの映画の支配者である。
そして、それはカメラという媒介を通じてサヨコにもなり得る。
だからこそ、この映画の支配者は物語を終わらせることを嫌悪する。
主にサヨコの行動によって、バシュレの復讐という物語の軸は紆余曲折を経る。
彼が簡単に復讐を終わらせようとするとサヨコはそれを止める。
拳銃は簡単に人を殺してしまうものなので、サヨコは度々バシュレからそれを取り上げる。
また対比として彼女が使う凶器はナイフである。
(人を操るときに必要なので拳銃を携帯するシーンはある)
何度も登場する「終わらせる」「続く」という台詞にある通り、この映画はバシュレたちの復讐が映画の題材であることに自覚的である。
ヨシムラ(西島秀俊)というキャラクターをわざわざ新登場させて「終わらせる」ことへの言及をサヨコにさせたのも98年版とは異なる解釈で本作を描くことへの大きなの意思表示である。
(だからこそ役目が終わったヨシムラはさっさと退場させる)
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そしてこの物語はついぞ終わりを見せない。
新島の復讐の対象は98年版では最終的に宮下ということで終了するが、本作では宮下のポジションであるバシュレだけでなく、サヨコの夫(青木崇高)へ対象が向けられる。
バシュレは財団のメンバーであったことから、彼に復讐の対象が向けられる道理は分かるが、夫がどのように事件に関わっていたかは曖昧である。
つまり真相は明かされぬまま映画が終了することで、物語は続くことができる。
かつ、最も恐ろしいことはサヨコの目線が最後に夫ではなく明らかにカメラ目線になっていることなのである。
劇中で蛇の目だと言及される彼女の目線は強烈にこちらへ向けられ、病院でカメラと彼女の視点がリンクしていたときのように、支配者である映画自体が今度は真っ直ぐ観客へ向けられている。