「僕も俗物だよ」
10年以上ぶりに、再鑑賞してようやく分かる。
一番幼いながらも、こう言える次男フランクが、「最強」にして、家族で一番幸せなのだと。
自分自身、そして家族をありのままに受け入れることができる勇気。
ある意味、幸せになる「潜在能力」が高い。
「素行」には問題があるが。
ノア・バームバック監督のオリジン(原点)。
自身の離婚を元に製作した、『マリッジ・ストーリー』もそうだが、より「洗練」されていた。
両親の離婚を元に製作した、今作が彼の一番パーソナルな作品。
「パパは高尚すぎて売れないだけだ」
鼻持ちならない、皮相浅薄な父。
父を盲信、崇拝する長男。
「(ソフィーは)かわいい?」
自分の価値観よりも、他人からの視線が大事。
彼らは小賢しい学術語を使いながら、「学歴」「社会的地位」など、誰にでも分かりやすい評価が好きなのだ。
言い換えれば、父と長男が見下している俗物。
それこそ彼ら自身なのだ。
だからこそ、他人を否定して自分を守る。
「いい思い出」で、長男ウォルトが、敬愛する父でなく、母との思い出話をするのも皮肉。
それも、見下している「修士号」のカウンセラーに指摘されるまで、自分では気づけない。
「だってたかだかバーガーで」
ラスト近くの妻の笑わずにいられない感情も、夫には永遠に分からない。
なぜなら「分からない」ことが、彼自身の存在意義を支えているから。
そしてその「構造」に、自ら目隠しし続ける夫を、妻は見捨てる。
女は、永遠に自分で「分からない」男に絶望する
今回再鑑賞して、父バーナードも可哀想な人間なのだと思えるようになった。
同じ轍を踏もうとしていた、長男ウォルトには、「気づき」という救いがもたらされるが。
再鑑賞して、自分の「影」である、この映画の登場人物を、このように淡々と描き切るバームバック監督の冷徹な視線に改めて驚かされる。
そしてその冷徹さをベースに、全編に人間を「見限らない」優しい視線が貫かれている。
見終えた後に、絶望して終わるような思考停止で終わらせない。
映画を自分に引き寄せ、自分の内側をのぞき込むようになる。
普段「目隠し」している盲点を探すようになる。
これこそバームバック監督の真骨頂。
だからこそ、10年後の再鑑賞でも、全く違った「物語」が見れる。