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ステレオ/均衡の遺失のCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

ステレオ/均衡の遺失(1969年製作の映画)
4.0
【現実にも仮想にも置けぬ自己領域】
デヴィッド・クローネンバーグの初期作『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立』が形而上学を映画に持ち込んだ理論派作品であったが、彼のデビュー作『ステレオ/均衡の遺失』はさらに論文みたいな映画だと聞いて観た。確かに、映像的面白さよりは、クローネンバーグのアイデアを並べたような作品であり、より論文的であり講義的であった。そして、その講義が分からない部分も多けれど興味深いことを語っていて面白かった。

本作はテレパシーがコミュニケーション手法として確立された場合の人間心理について考察している。言語なくして抽象的、論理的思考はできるかと投げかける。そして、テレパシーによる会話が行われるときに人間にどのような影響を及ぼすのかを掘り下げていく。テレパシーにより、他者の思想が干渉してくる。自分が心で思ったことを覗かれてしまう。テレパシー同士での会話による、自分の安全圏を作るために内なる箱を設けるのだ。技術系の話をすれば、企業内のネットワークと外部のネットワーク領域を接続する際に、外部から侵食され大切な情報が汚染されるのを防ぐためにDMZ(非武装地帯)を設けるのだが、それをテレパシー使いの中で実現しようとしていることが分かる。まだ、ネットワーク技術が市民から遠い存在だった時代にDMZ的発想をクローネンバーグが持っていたことが面白い。

この発想を今に当てはめると、SNSの役割の変容に近いものがある。1990年代から2010年代初頭ぐらいにかけてSNSは、現実で吐露できない感情を吐き出す場所として使われていた。しかし、多くの人が日常的にSNSで情報を発信したり、他者の思想を覗き込めるようになると、SNSは現実と等しい公共の場と化す。他者による干渉や、社会の流れによって自分の本心が揺さぶられる。そうなってくると、人々はSNS上でも現実同様に仮面を被り、自分の本心を制御しようとするのだ。その心理を明確に描いた作品が細田守の『竜とそばかすの姫』だったりする。2020年代、人々はテレパシーを使うことはまだできていない。でも他者の思考が簡単に覗き込めるSNS空間で個人間の権力闘争が起こる構図は本作が語っている通りになったといえよう。

『ステレオ/均衡の遺失』に話を戻すと、クローネンバーグは肉体と精神の関係性について論じており、異性愛者とそれ以外に差異はないと語っている。異性愛者とそれ以外の差は生殖できるかどうかであるが、それによる優劣はなく、どちらも倒錯でしかないと語っている。SNSのアイコンで簡単に異性や異形、なりたい自分になれ、多様性について人々が触れる機会が増えた2020年代ですら、いまだに異性愛者至上主義、生殖できるか否かが争点となる時代。クローネンバーグの問いかけは、全く枯れることの知らない重要なものを備えていた。

視覚的快感はあまりないけれども、形而上学的思考の面白さに触れられた作品であった。
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