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湖中の女のkuronoriのレビュー・感想・評価

湖中の女(1946年製作の映画)
2.5
私もフィリップ・マーロウになれる筈だったのに…
…別の探偵になってるような気がするんです(笑)。

レイモンド・チャンドラー著す不朽のハードボイルド私立探偵フィリップ・マーロウ。その第四作の映画化です。
「三つ数えろ」では、ハンフリー・ボガート。
「かわいい女」では、ジェームズ・ガーナー。
「ロング・グッドバイ」では、エリオット・グールド。
「さらば愛しき女よ」では、ロバート・ミッチャム。
いろんな名優達がマーロウを演じて来ましたが、本作でマーロウを演じるのはカメラ!
つまりマーロウから見た主観映像で事件が描かれるわけです。
では、マーロウの姿はまったく出て来ないのかと問われれば、そんなことはない。鏡に写ったりするわけです。そのときは本作の監督を兼ねているロバート・モンゴメリーがマーロウに扮しています。
この、主観映像で構成するというアイデアは、原作のマーロウ自身の「一人称形式で書かれた文体」を再現する方策として考えられたのだと思います。
原作の文体は、ハードボイルドで非感情な叙述ながら、随所に影を落とすマーロウの冷笑的で感傷的で孤高と自虐と倦怠と機知と皮肉に富んだ内面が感じられるとても魅力的なものです。
(因みにこの系統の私立探偵小説に一人称形式が多いのは、『報告書』的な形態からきているのだと思います。)
本作の、主観映像で一人称文体を表現しようという試みは、結果的に原作の地の文がもつムードを再現することはできてないと思います。よくある手だけれど、モノローグでチャンドラーの文章をかぶせばよかったのかも。

本作はクリスマスソングが流れるクレジットから始まります。これがメッチャあわない(笑)。最初、間違って違う映画のディスクが入っていたのかと思いました。
そして残念なことに、最初にマーロウ役のロバート・モンゴメリ監督が出てきて、観客にむかって
「私はフィリップ・マーロウ…」と話しだした瞬間に、
「全然違うわ!」と即座に突っ込みたくなります(笑)。
さてこのマーロウ、自分の書いた小説の件で出版社に呼ばれます。
出版社の秘書の尖った胸に視線が行ってしまうのですが…そんなことより!
マーロウが小説なんか書いたっけ?自分の経験した事件を元にミステリーを書いて出版社に売り込むなんて、およそマーロウらしく無いように思う。
またこのマーロウ、時々シニカルな笑い声をあげる。マイク・ハマーならそんな感じかもしれないけど、なんだかとってもマーロウっぽくない。これ、顔が出てなくて表情で演技ができないから、声を上げて笑うしかないんだろう…と、無理無理自分を納得させます。
(後日追記 : もしかしたら、ボギーの話し方や笑い声に寄せてるんじゃないか…という気がして来ました 。)
さらに仕方ないとは思うのですが、基本的に登場人物たちとの会話なので、構図が人物を正面から写した同じ距離の似たようなものばかりになってしまう。これが段々飽きてくる。製作当時は無かったわけだけどコンピュータゲームの画面みたいです。
ずっとカメラが主人公になって相手を見つめてるので、細かくカットしてアングルをかえたりできず、基本的にパンしながらの長回しの芝居になっていくわけです。
そのせいか、なんとなく俳優が緊張してる感じがします。出てくる人達がみんなカメラ目線で会話してくるせいもあるのかもしれません。現実は、人ってこんなに終始見つめ合って話してないような気もします。
あと、主観画面と長回しの効果で、臨場感はメッチャあります。なので、死体を発見するところなんかリアルな感じで、普通の映画だったらさほどでもない情況が結構インパクトをもって迫ってきます。

しかし考えてみたら、このシリーズはマーロウの魅力で成り立っているわけで、「蒲田行進曲」のヤスじゃないけど「…マーロウ、かっこいー!」と身をよじって叫ぶ為のものだった(笑)。
その対象が画面に出て来ないんじゃ…推して知るべし…かも。

ふと思ったのですが。
チャンドラーの後継者ロス・マクドナルドの私立探偵リュウ・アーチャーは、「動く標的」などの初期作品ではヒーロー性が強いのですが、最晩年の作品群では、物語を構成する主役は事件の当事者達となり、アーチャーは淡々と質問をしてまわって事件の真実を浮かび上がらせていく、一歩下がった狂言回し的な立場になっていきます。
つまり、こっちなら探偵にヒーロー性や物語の主役であることが求められないわけです。
「さむけ」とか「ウィチャリー家の女」といった最晩年の傑作群をこの映画みたいな手法でやれば、ピッタリはまるんじゃないのかな…と、ちょっと思いました。
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