古川智教

愛の勝利を ムッソリーニを愛した女の古川智教のレビュー・感想・評価

4.9
多くの映画は被害者ばかりを描いてきた。戦争の被害者、犯罪の被害者、またはろくでもない男の被害者となった女性など。まるで被害者を描きさえすれば、犯した罪が償われるとでも言わんばかりに。映画自体を免罪符のようにして。だが、いかに被害者を真摯にあるいは誠実に描こうとも、犯した罪が、その事実が許されるわけではない。では、映画には罪に対してあるいは戦争に対して被害者を描く以外に一体何ができるのか。「勝利を」において、それはまず権力者を権力=加害の側から描くこと、より正確を期せば権力者を人間でも、支配的な意味での男でもましてや歴史上の権力者としてでもなく、権力=加害そのものとして描くこととして示されている。冒頭、5分間での神の存在証明で神の不在を証明した傲岸なムッソリーニはイーダと再会して早々にイーダとセックスを始めるが、ムッソリーニが見つめているのはイーダではなく、その先にあるもの=権力である。(ムッソリーニにはイーダが見えていない。それが証拠にムッソリーニはイーダを精神病院送りにして以降は実際のニュース映像として現れるだけであり、イーダへの視線は欠落している。それもまた見えない権力=加害である)そして、そのムッソリーニ=全き加害を見つめている観客。映画のフォルムもまたそれに随伴しなければならない(でなければ、多くの映画と同じように権力者を非道の人間として描くだけのクリシェに陥るだろう)。劇中に突如現れて狂気の発作のように連続して繰り返される「戦争」の文字のテロップやアジテーションの言葉のテロップ、挿入され、時折二重露光となるニュース映像、サイレント映画とその観客の影絵。これらは通常の映画のフォルムにとっては物語を破壊しかねない超越となりうるものであり、敢えて超越を映画内に導入することで権力そのものを炙り出し、映画がムッソリーニ=権力と狂奔しているように思わせることができる。もちろんそれだけではこの映画を革新たらしめることはできないだろう。権力そのものとしての権力者、映画の超越に対してはイーダがいる。イーダは被害者だろうか。愛する人に捨てられ、息子を取り上げられたという意味でのただの被害者としておいていいのだろうか。少なくともファシストを愛し、ファシストの正式な妻であることを主張し、ファシストの息子をその父が認知していたという事実を声高に叫ぶという意味においてはファシストによって虐げられた人々にとっては被害者とは言い得まい。精神病院において、良心的な医師はイーダに言う。「今は時が悪い。そのうち、ファシズムは滅びることになるから、それまでの間はうまく立ち回り、演技をしろ」と。(多くの映画と同じように、多くの人々はこう言っていたわけだ。その結果がどうなったかは言うには及ばない)しかし、イーダは医師の助言には従わない。イーダはあくまで「ファシストを愛し、ファシストの正式な妻であることを主張し、ファシストの息子をその父が認知していたという事実」を声高に叫ぶのだ。何度も繰り返し、届けられない手紙としてであれ、その場での絶叫としてであれ。だが、何度も繰り返すことでこの言葉の意味は反転する。イーダは愛する人に捨てられた被害者としてそう言っているのではなく、自分はファシストの側にいた者として、権力=加害の側にいた者として「ファシストを愛し、ファシストの正式な妻であり、ファシストの息子を生み育てたのだ」という真実を突きつけているのだ。これこそ被害者を描く映画が避けてきた真実なのではなかったか。映画であるからにはそれだけで被害者の側に立つものであり、自分自身は権力=加害からは免れていると自惚れている映画自身に対してそれは鋭く突き立てられた真実だ。
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