Unboludo

愛の勝利を ムッソリーニを愛した女のUnboludoのレビュー・感想・評価

5.0
何度観ただろうか。そしてまた、泣いた。
こんな編集、照明、音楽、見たことない。全てだ。全ての要素で映画はできている。大袈裟な光は必要ないとか、うるさい音楽は要らないとか、感情的な芝居は映画じゃないとか、そんなのとっくに超えてる。そういった照明や音楽や芝居や編集や美術うんぬんが、映画の各要素がシナリオと監督の求めるイメージに呼応して反映されるとき、それがしっかりと呼応して演出として表現として表出されたとき、それが力強ければ力強いほど映画の力強さに直結するのだと、それがヤッてる、みたいに見えたところで映画としてのエネルギーをここまで表出される瞬間が、他の監督にはありえないような人物描写としてあるし、他の映画を見れば見るほど、この映画の唯一無二性が浮かび上がる。どうしてこんなカオ、カットバック、クロスカッティング、フラッシュバック、夢といった断片ばかりの映画が、その人の人生を2時間で描いてしまうのだろうか。そしてそれらの映画性を優に忘れさせるメッツォジョルノの怪演。顔つきひとつ歩き方一つから感情が湧き出ている。フィリポティーミは境遇の異なる一人二役を見事なパワーで演じる。眼。なんという眼差し。この映画は全て感情か?史実を演じて、しっかりと映画として史実を超えている要素となる芝居よ。

Vincereと言われてもイーダは勝ったのだろうか。たしかに負けなかった。それは確か。

舞い落ちる雪の中、柵をよじ登るイーダ。その上下運動を象徴するかのようなオペラ調フィリップグラスの音楽。投げ捨てられる白い手紙は儚くも瞬く間に降下し雪の中へと溶け込む。雪の中では何も芽生えない。何も生まれぬ状況下。しかし確かに唯一芽生える息子べニートの自我とイーダの全ての悲しみを表現するバックショットが交差して映される。

僕にとっては映画史上最も崇高で、最も美しいシーンだ

Akhnaten: Act 1, Scene3: “Window of appearances”
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