2026年カンヌ映画祭コンペ部門選出作品。ペドロ・アルモドバル長編25作目。コンペの中では最長老であり、彼一人で平均年齢を1歳上げてるくらい年齢が離れていた。あまりにも巨匠すぎるので、カンヌ開催の遥か前に本国公開済みなのに選出されることになった。その時点で既に評判は悪く、LB上での長編の評価としては下から二番目であり、国際プレミアの場となったカンヌでもそこまで評価されなかったものの、他が悪すぎて中の下くらいのポジションにいるのが最高に面白い。また、同じコンペに登場したロス・ハビスの二人も端役で登場している。彼らの作品『The Black Ball』にも構造的に似ている部分があるのも興味深い。物語は二つの年代を互いに行き来するように語られる。2004年、母親を亡くして間もないCM監督のエルサは悲しみに暮れていた。片頭痛のせいで仕事を休むことになったとき、彼女は友人と共にランサローテ島へ旅行に行くことにした。かつて二本だけカルト映画を撮っていた彼女は、遂に三本目に着手するため、友人たちの個人的な苦悩を映画に取り込むことにした。一方、2025年を舞台にした挿話では、著名な映画監督ラウルが上記2004年の挿話を自身の新作の脚本として描いていた。ラウルもまた、自身の創作のために友人たちの個人的な経験や苦悩を利用しているのだった。2004年の挿話が2025年の人々による創作であることは序盤に判明するが、なぜか2025年の挿話は登場頻度が低く、アルモドバルの分身であるラウルとラウルの分身であるエルサがそれぞれの挿話において似たようなことを繰り返すという構造になっているのは、自己言及という予防線に守られた創造性の枯渇そのものなんじゃないか。終盤では創造性の枯渇について、モデルにされてしまった人物に対してラウルが傲慢すぎる提案で創作への"理解"を求める場面まである。確かに、"人を救いたい"という思いから、他人のエピソードのエッセンスを抽出して、ある種のハッピーエンドを"与える"ことの傲慢さは、多かれ少なかれどんな映画にも言えることかもしれない。しかし、ラウルはそれを自己セラピーの一環としての映画撮影に対する脚本としてネタがないから身近なエピソードをパクってきた上で言っているので、より傲慢さが増して見える。あと、自己言及をしたからといって、つまらないものをつまらないものとして出されたなら、それはつまらないものなのだ。終盤の10分の怒涛の罵り合いは、まさにアルモドバルが置かれた現状の吐露という感じだが、ファンじゃない人間からするモニカの提案通りに大人しくしてくれていた方が良いのではと思ってしまう。マーティン・スコセッシの映画保全活動を見習ってくれ。