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砂の女のrのレビュー・感想・評価

砂の女(1964年製作の映画)
4.7

高校生の頃に読んで衝撃を受けた大好きな安部公房作品の一つ。だいぶ前に映像化されていると知ってから、ずーーっと映画館のスクリーンで観たいと願っていた作品。ようやくその時が…!35mm上映@シネマヴェーラ。
「他人の顔」や「白い朝」等が見事だった勅使河原宏監督作品ということで、鑑賞前から期待値は激高。。その上がりに上がりまくった期待に見事に応えてくれた圧巻の映像化。

ベタついた皮膚、とめどなく流れ続ける汗、纏わりつく砂、水への狂気じみた渇望、砂の壁に囲まれた落とし穴… これらのなんとも不快なこと。これだけでも世界観を構築するに十分な気もするけれど、なんと言ってもこの物語において決定的なのは岸田今日子さん演じる女の存在感。
時に妙に色っぽく、時にやけに醜く見える彼女の顔がなんとも不思議で、どこかこの世のものではないような雰囲気すら感じる。とにかく彼女から目が離せなかった。

彼女の顔だけでなく、その存在や言動の全てがとにかく謎めいている。愚直で無知なようでいて同時に実は全て見透かしているような眼差しが恐ろしい。男のことをいつまで経っても「お客さん」と徹底して呼び続ける点も、距離感がひどくあやふやな感じがして困惑する。意志がなく非力で従順な一方で他人を騙し当然の如く自分の生活に取り込み、男手として働かせるといった傲慢さも併せ持つ(余談だけど、ミッドサマーを思い出した。調べてみたらアリ・アスター監督は本作を鑑賞済みだそう。他の日本のクラシック作品もお好きなよう)。さらには、泣いているのか笑っているのか分からないような表情。男に媚びるようなか細い声には相手に擦り寄い物乞いするような狡猾さを感じる一方、砂かきをする時の勇ましいかけ声には真っ直ぐと自立した揺るぎなさを発見したり。まさに砂のように掴みどころが無く、どんな手を用いようとも彼女を定義づけることができない。

「でも私は砂がなかったら誰も相手にしてくれやしないじゃない」という女の言葉の通り(この言葉が何度思い出しても最高)、まさに砂に生かされる日々を女と送ることになる男。昆虫採集が趣味で教師である彼は、恐らく東京でそれなりの社会的地位に位置する人物だ。女とは逆で、社会的に定義されたさまざまな称号を有する。宿を手配すると申し出る部落の男に対し彼が放った「私はこういうところの民家に泊まるのが好きでね」という言葉からは、彼がいかに自分とこの部落の人々を社会的に切り分けて捉えているかがよく分かる。

そんな彼にとって、文字通り部落の底辺へと急落し、ありとあらゆる社会から与えられた要素や権威を見ぐるみ剥がされていくことには、恐らく相当な屈辱感を伴うだろうと思う。脱走を試みるのは一般的な感覚からすれば当然のことだ。
脱走劇といえば主人公があの手この手を巧妙に駆使し華麗に逃げ出し物語は幕を閉じるのだけど、この物語は違う。なんせ、壁は全て砂。壁をよじ登ろうとしても、足場を作ろうとしても、虚しく砂の塊が崩れ落ちるだけ。外へ出る唯一の方法は、上から梯子をかけてもらうのを待つのみ。もうこの自分1人では何が何でもどうしようもないという絶望感が最高だし、モノクロの映像で大小さまざまな塊へと無力に砕けていく砂が純粋に美しくて堪らない。

※以下、微妙にネタバレあり※

外の世界に戻るためのカラスを標的とした罠を希望と名づけ、その希望がたまたま貯水装置として機能することを発見する男。部落の男たちが外し忘れた梯子を見つけ、呆気ないくらい簡単に外の世界へと放たれた男は、砂丘を彷徨い歩いた後に海を目にした後、自らの意志で砂の家へと何事もなかったかのように戻ってくる。なぜなら彼の頭を今支配しているものは、脱走ではなく貯水装置なのである。早く部落の人間に貯水装置のことを話したくて仕方がないのだ。

全ての社会的記号を奪われ一度真っ新な状態となった自由な男は、では果たして何を選択するか?と問われた時、今現在の自分が持ち合わせている手札を見比べ、より自分が大きく認められるであろう方を選ぶのだ。たとえそれが前までは逃げ出したくてたまらなかった不自由さや嫌気に満ちていたはずの社会であったとしても。
人は大きな意味での環境ではなく、いかに自分が所属する社会やコミュニティから承認されるかを判断軸にする。となると、そこに実は自らの意思は無いし、その先に空っぽの「自分」が形成されていくと考えるとゾッとする。(これは私がアルゴリズムによって表示されるおすすめ広告に感じる脅威でもある。。)

もう、ここに本当に人間の愚かさや哀しさ、承認に対する病的な執念が溢れていてたまらなく好きだ。恐らく人は社会の中に身を置いた時、自分の認めたくない、ひた隠しにしている部分を自分以外の何かや誰かのせいにすることで常に逃げ場を用意している。もう1人の自分をそこに恐らく飼い慣らしているのだと思う。「砂の女」は、まさにそのもう1人の自分と自分が入れ替わってしまう話のように思う。社会に着せられた服を剥ぎ取られ、剥き出しになった人間性を見つめながら、人間の高潔さや業とは何なのかを考えずにはいられない。特に部落の人間の前でセックスをしろという命令に男が必死に応じようとするシーンの愚かさなんかは決定的だ。 

幾度となく外の世界の総称のように用いられる東京という言葉は、女にとってのラジオ、男にとっての海のように、桃源郷のような憧れに満ちた場所として位置付けられているが、実際のところは一度手にしたら満足してしまうものであり、その対象に対し自分の中で理想めいた空想を膨らませ続けていたに過ぎない。自分はその対象を欲していたのではなく、幻を夢見ることを許してくれる存在を創造することで自身の日々をやり過ごす糧にしていたのだ。なんという虚しさ!

原作の持つ独特の世界観を壊さずに、見事映像として独立した作品になっていると思う。原作をまた読み返したくなったし、その後はきっとまたこの映画を観たくなる。。見事乾涸びた。
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