ロッツォ國友

風と共に去りぬのロッツォ國友のレビュー・感想・評価

風と共に去りぬ(1939年製作の映画)
3.5
「神様、誓います。
私はどんなことにも決して負けません。
どこまでも生き抜いて見せます。そして二度と家族に、ひもじい思いをさせません。
その為には盗みや、人殺しもするでしょう。
神様、誓います。
二度と飢えに、負けません。」


1939年の映画ということで、演技や台詞回しが舞台みたいで映画的にはクサイなと感じる場面もあったけど、時代的に映画より舞台の方が主流だったのかも?
4時間という長さも当時の映画として長いのが短いのか。
しかしいずれもそれほど気にならず楽しめた。中だるみもなく、80年前ゆえに古さは感じても雑さや拙さは感じられなかった。
今や親しみやすい作品など星の数ほどあるのに、今も観やすく、4時間観てても退屈にならないのって凄い。
丁寧に作られてる印象を受けました。



さて、舞台は1860年代の南北戦争期で、公開年からすると70年前。
今でいうと第2次世界大戦期を設定に使用する感じだろうか。というか、第二次世界大戦開戦とされる年に公開されている。
なんかその辺、「古き良き美しい南部が戦火に焼かれ失われる」というプロットは、戦争へと向かう当時のアメリカに住む人々としても普遍性のある題材であったのかもしれない。


若く未熟で、終始子どもっぽいスカーレットの困難と成長を描いた伝記のような形式。
生まれも見た目も申し分ないが、結果的にそれだけで人生が成り立つくらいに甘やかされてしまった故か、冒頭の彼女はただ年齢を重ねただけの少女ともいうべき幼さで、呆れるほど身勝手である。
いや、身勝手は作中ほぼずっとか。。。

周りがチヤホヤしているのも、家や土地や美しい見た目があるからであり、当初から彼女の内面を見てくれていたのはアシュリーだけだったように思う。
それが唯一、スカーレットがアシュリーに惹かれていた理由かもしれないけど、でもそれ、やっぱり女性として思い慕われてる訳ではない。
そういう履き違えが、スカーレットの甘さや幼さを表してもいるのかなと。


周りの男はみな戦争に沸き立っているが、勇気だの正義だのと精神論ばかり並べる様は、政治を考えているというよりは飲み会の鉄板ネタ程度にしか考えていないようだった。
形式としきたりで着飾った文化の中で生き、身の回りの泥臭い仕事はみんな使用人任せ。
そこが南部の良さであり、南北戦争における敗因であったのかもしれない。

優雅な文化といってしまえば聞こえはいいが、とはいえ誰かの犠牲なくしては成り立たない生き方だし、実際登場する南部人のほとんどに生きる力があるように思えなかった。
淑女の嗜みとか言って昼から寝転んでクジャクの羽で扇がれている彼女らに、何ができようか。


そして前編の終盤。
恋敵の妊娠・出産騒動のシーンで初めて、地に足をつけて"現実"と向き合い行動するのだが、本当の意味でのスカーレットの人生はここから動き出す。
初登場する引きのアングルで遠くからスカーレットが映されるが、彼女が一時的にせよ、初めて俯瞰的に自分と自分の立場を見ることができたという表現かもしれない。


戦火に巻き込まれる形で、これまで頼りにしていたものを悉く壊され、奪われ、失っていくスカーレットはやがて自らの足で立ち、困難に屈さない決意をする。
偉大な土地、豪邸、使用人に数々のドレス。
どれも自分で手に入れたわけではないが、しかし自らのせいで失ったわけでもない。
運命に翻弄されることしかできなかった彼女が、次第に思い込みや夢から目覚め、現実に立ち向かっていこうとする姿に心を打たれる。

金と故郷のためにあらゆる危険を冒し誰にも屈さない暴れ女として成長するスカーレットと、強引且つ色気満々でありながら、唯一の理解者でもある強者レッドの掛け合いも、何ともおもしろく切ない。
一番の組み合わせに見えた二人だが、結局それも彼女を完全な幸せに導いたわけではなかった。

というか彼女、本当に最後までロクなことにならないし困難続きなんだけど、何もしておらず何も対処できず嘆くだけの前半に対して、後半の困難には自ら考え、選択し立ち向かおうとしており、スカーレット自身の成長を感じ取ることができる。
が、とはいえやはり幼いスカーレットが居なくなるわけでもない。
たくましくなる一方、結局誰かに泣きついたり言い訳したりウソついたりと身勝手さは無くなっていないし、またそれを自分でも制御できておらず、自分には何が必要で、手元に何を持っていて、どうしていくべきなのか考えられていない。


アシュリーとレッド、二人の男との恋/愛に揺れながら、多くを失い、手に入れ、また失うスカーレット。
またそれでも幼さを完全には捨てきれなかった彼女の甘さに、しかし共感を禁じ得ない。
我々にもこういった身も蓋もない理不尽と自業自得の両方に苦しみながら、前に進んできた経験はないだろうか。
境遇も生まれも何も重ならないが、それでも生きていれば必ず困難に直面するのだ。非常に限定的な題材でありながら、描かれているテーマは極めて普遍的だ。
成長してなお鉄人になるわけでもない人間らしさが、何とも言えぬ味わいを生む。

これは確かに、80年経っても伝わるだろうなと思う。



さて余談だが、作中の黒人奴隷は誰も非道な扱いは受けておらず、むしろ誇り高い家族の一員として描かれていた。
自ら選んでその仕事をしている、というくらいの雰囲気でポジティブに捉えられていて、実際はK.K.K.絡みもあって相当な批判を受けたそうである。

確かに作品が白人視点のみで、黒人が黒人であるという理由で可哀想な目に遭うような描写が一切ないという点は違和感を感じなくもないけど、ファンタジー要素として受け取るしかないだろうし、それほど嫌味にも感じられなかった。
そもそも黒人が酷い目に遭う描写を入れたとしても本筋とは関係がなくノイズにしかならないし、歴史に翻弄される構成とはいえ史実を何でも詰め込めばいいというものでもないし、妥当な表現と思う。

むしろ穿った読み取り方として、そういった「奴隷の痛み」のようなものに目を向けられない甘さ ヌルさこそが南部人たるスカーレット達の苦労・困難の遠因と捉えることもできる。
過去の栄光や表層に囚われ、現実となかなか向き合えていなかった作中の南部人は、やはり身近な黒人奴隷に関しても仲良くしてる使用人程度の認識しかなく、しかも最後までそこにスポットライトが当たらないあたり、作品そのものとしても、南部人の甘さが垣間見えるポイントかもしれない。
文化人類学的には、むしろこの感覚こそ研究して然るべきではないだろうか。
これでイイと思う。


4時間という長さ、80年前の作品にも関わらず飲み込みづらさがなく、割とずっと興味が持続する設計も見事。
作品として面白いし、当時にしかない感覚・思想・歴史観があるという点でも観る価値があるだろう。
乗馬してみたかったけど、怖くなりました。
ごっつぁんでしたぁ
ロッツォ國友

ロッツォ國友