ロッツォ國友

劇場のロッツォ國友のレビュー・感想・評価

劇場(2020年製作の映画)
4.8
松岡茉優って……
ずっと「みゆ」だと思ってた………
「まゆ」だわ。。。。。。


友達に勧められて観たけどめちゃくちゃ面白かったんですけど逆にもはやなんですかこれ!?!???!!??
1ミリも聞いたこと無かったけど、完全に食らった……
めちゃくちゃ名作やないか。。。。



山﨑賢人、顔が良くて人気という理由だけでとりあえず食わず嫌いしてたけど、めっちゃ良かったっすわ。。。

下北沢でアレが劇作家やってたらやべえよ。
猛毒だよな。
顔がいい芸術クズの化け物みたいな存在。
川谷絵音とかそっち系に近いアレですよね。
マジ怖いっす。


まぁちょっと、彼は顔がカッコ良いし、優しい感じが滲み出ちゃってるからリアリティとしてどうなんだ?と思わなくもないけど……

逆の逆の逆で、非実在感のある人間としての、理解されにくいながらも実は普遍的な葛藤と苦労を肚に溜め込んだ人物像がなんだか憎めなくて、逆の逆に、最後まで見ていたくなるキャラクターだったと思う。

フツーに嫌な人も居そうだけどもw

単にイケメンだから画が持つとかそういう浅いところじゃなく、実在感の薄いキャラクターの中にある共感できる部分がすごく魅力的に映えるような配役であることが素晴らしかったと思う。

この、フィクションの中にある迫真性、虚構の中にある真実…みたいなポイントは本作全体のテーマとも繋がると思っています。
後述します。



一方、ただひたすら永遠に可愛くて超良い女の子、というとてつもないキャラクターが沙希ちゃんなわけですが、特に前半において徹底して美化されまくった人物像こそ、永田の歪んだ思い入れが込められた目線が投影されたものでしょうな。

そしてその究極可愛いキャラにリアリティと存在感を持たせる松岡茉優(ミユじゃなくてマユだからな!!!!!!)がすごい。
こんな女居ねえよってのを全部吹き飛ばして、超可愛い。
いいです、これで。
可愛い。



序盤の描写はちょっとイケてないなーーー?と思ってたけど、終盤の冴え方を見るに、あの安くてちょっと寒いドラマみたいなノリもわざとだったんだろうなと思える。

安いセリフとナレーションはあくまで小説の映像化であり、映画的ではないなと思ったが……ナレーションに合わせて場面を横にスクロールしていくあたりは、劇団公演の場面転換を模したものに思えた。


これ、小説の映像化はまぁそうなんだけど、志的には「劇の映像化」なんだと思う。
そして、そう捉えるに本作はとても良く出来ていたと思う。

ちょっと音楽は全体的にイケてないというか凡庸すぎてる気がしたけど、まぁ全然気にならなかったかな。
文句ありません。



サブカル系特有の、人と違うことだけが誇りだけど、本当は人と同じようにできないだけのヒモと、それを嬉しそうに飼っちゃう優しくて可愛い彼女の組み合わせ。

大変香ばしいですね👍

絶対不幸になると思ってワクワクしちゃったんだけど、結果から言えば、本作はそんなカスい話ではなかった。

…いや、事象だけ見るとカスい話なのかもしれないが、その視座は、体温の籠った実感に基づいた、暖かな人間の心そのものを映した物語だった。


カップル描写が良くも悪くもとても淡くてめちゃくちゃいい。
ケンカとかもさ、二人の危うくて不均衡なパワーバランスを反映させつつもリアルでちょっとヒヤヒヤしちゃう。

金もねえのに自尊心ばかり高くて、ホントしょうもねえ奴!…ってのは実は本人が一番思ってることなんだよね。
そして自分という人間があまりにもしょうもねえってことを「自分が一番分かってる」っていうセリフすら、また陳腐で耐え難い。


くだらないポイントのカスい理由でキレて、さらにそれで自己嫌悪した挙句に現実逃避しつつおどけたテンションで彼女を笑わせて、そうして逃げてる自分すら嫌になる永田。

スカしてカッコつけてる奴がある意味一番、恥ずかしい己のありように息を詰まらせているのかもしれない。


どう接していいかわからないことがある…と心情吐露されたあの二人のムード。
もう最悪ですよね。
永田は部屋の照明の位置的に明るいところにいるのに、むしろ分からない存在は彼の方なのだから。


ずーーーっと黙々とゲームをやってるのもまた気まずい。
気まずいが、現状一番場を持たせられるのが多分ゲームだから、そうしているのだろうね。

テトリスだかツムツムだか、所謂「落ち物パズルゲーム」なのがまた象徴的だ。

どんなにうまくやろうが世界的チャンピオンだろうが、同じ色のブロックを集めて消していっても必ずちょっとずつゴミが残り、それが次第に溜まっていく。

どうにもならないものが残っていくと知りながら延命的にやり続ける永田の姿がひたすら侘しい。
全てのブロックを消しきれないからゲームたり得るのだし、心に残るアレコレを綺麗さっぱりにできないから彼はゲームにしがみついている。

彼女との時間と、彼の逃避行動はそのまま表裏を成していて、だから本質的には、二つは同じなのだと分かる。



「今後のことも考えて、光熱費だけ?払ってもらえないかな…」
って、すげーセリフだよね。なかなか現実で聞けませんよ。
しかもそれに対して「でもぉ…」って答えんなや。
金を払え。

まぁけど、クズ飼い界隈(?)だとあるあるエピソードなのかもしれんな。。「でもぉ…」って答えるのまで含めてね。
金を、払え。


そういうのをヨシとしちゃう甘さはもちろん沙希ちゃんの大変よろしくないところだし、それに甘えきりながら更にクソみたいな扱いで返し続ける永田ももちろん最低なんだが、そんな酷い状態がWin-Winで成り立っちゃうところが、上手くいっちゃってるように見えるところこそが、二人にとって互いの人生を澱ませる最も悪いポイントと言わざるを得ないだろう。


梨を置いておくシーンに象徴されるけど、永田はたぶん、ペットの類に近いんじゃないかな。

同等の人間として扱えていない。

沙希ちゃんが永田を人間として認めてないからこそ無限に甘やかすし、甘やかしている自分に何処か救いを見出しているフシがある。

永田は人間として認められていないことに最大限甘えているが、そのクセ一丁前の自尊心を乗せたままなのでずっとヒズミの中にあるし、だから彼は時折壊れた行動をしてどうにもならない自意識を見ないように霧散させている側面がある。


優しくて素敵な女性だし、見下す意識もないと思うけど、でもやっぱ、ヒモは独りにして成らず、いい女だけにしても成らず。
残念ながら。



自分より才能と実力と注目度のある作家が提供した舞台を観に行って、他の観客のスタンディングオベーションで前が見えなくなるシーン、めちゃくちゃいいね。

他人が称賛されようがされまいが、ホントは自分には何の関係も変遷もないというのに、客が総立ちになったらスポットライトの反射光が自分に届かないような気持ちになる。
観客の総立ちで自分が暗いところに取り残される。

見えなくなったのはみんなが立ち上がったからじゃなく、自分が座ったままだからなのに。


「創作で狂う」系の話はリアルでもフィクションでも古今東西あらゆる場所でたくさん見聞きするけど、やっぱり人に届く表現をするって、只事じゃない。

人と比べられるのが怖くてたまらないのだが、でも人と比べてもらわないと自分が明るいところに立てないのも分かっている。

その本当に身も蓋もない現実のグロテスクさを前に、彼はずっと逃避をし続けていたのである。



「他者は鏡」って言葉、本当に身に沁みて正しいと感じられる。

自分と相対している他人は、しかしほとんどの部分が見えておらず分からないから、自分の内面にある人間像を再構築し補完して見るしかない。

永田は、他人の中にある見えない部分を、永田自身の情けないところで埋めるから、周囲がみんな自分を馬鹿にしてるようにしか思えないのだけど(実際、ほんとに馬鹿にしてる要素もあるのかもしれないけど)、大半は自分自身で作り上げた心の虚像なんだと思う。

そして虚像でも甘やかしでもない実像と向き合うのは、本当に耐え難い。

叫んでキレたり誰かに激しく怒ったりしているのも、自分の惨めさから目を逸らす為であり、彼はずっと己の内面をグルグルと逃げ回っているだけだ。



だから、居酒屋まで乗り込んでいって会話するシーン。
アレは彼にとって、図らずも初めて素直に人と向き合えた瞬間なのだと思った。


初めて彼は彼女以外の人間とちゃんと言葉を交わして、社交辞令混じりでありつつも目を合わせて会話している。

褒めてくれる、認めてくれる人と向き合って、とても真っ当に会話したのは、彼にとっては衝撃的な出来事だったかもしれない。

あぁ、スカしたり悪態ついたり意地悪したりしなくていいんだと、そう気付いたシーンに見えた。

なんなら握手までして、なんか認められた感じがしたんじゃないだろうか。
思ったより他人は自分を攻撃的に捉えてなくて、思ったより他人は自分を認めてくれるのかもしれない…と感じたんじゃないだろうか。

このシーンは彼にとって、タイミングもスピードもぜんぶ遅い「再生」の始まりだったのだと思う。
起承転結における、長い「転」の始まりだと思う。



…まぁーその後も、沙希ちゃんが酒で壊れるくだりとか、美容師のくだりとか、青山にふつうに怒られるくだりとか紆余曲折は引き続きあるんだけど、彼の人生は再生して、少しずつマトモになっていく。


マトモになっていく…っていうのは、つまり、この破壊的な関係を終わらせにかかれるようになるってことだ。

止まった時間を再び動き出させることだ。




そしてそしての終盤「脚本」を読むシーン!!!!!
あはーーーやられました!!
見事!!!

劇とは即ち虚構であり、役者は特定のキャラクターになりきって決められたセリフを喋ることになる。
それが演じるということだ。

けど、このシーンで読む「脚本」は、口に出すセリフこそが二人の本心。
作家が作った脚本を読むのとは、ある意味真逆の構図になっている。


そしてこれ、劇中劇、ですね。
劇の中で、また劇をしている。
ウソの中のウソ。
けど、詠むのは本心。
今まで一度も口に出したことがない本当の気持ち。

劇中劇であり、
現実中現実とも言える。

劇中劇をやるシーンを今映像化して観ているわけだから、ちゃんと紐解くと劇中劇中劇中劇くらいなもんなんだけど、しかし、それらを貫くように「二人の本心」が通じている。
そしてそれが何より心に刺さる。

それもそのはず。
物語はウソそのものでも、実感が全くない物語は残らないものだ。



ラストのアレも、マジですごい。

それまでの全てが虚像で、あのシーンだけが夢を叶えた実像のように見える。
逆に、
それまでの全てが実像で、あのシーンだけが実現しなかった夢溢れる虚像…にも見える。

どっちにも取れる表現として面白いし、さらに重要なのは、テーマ的にはどっちだとしても"同じ"である、という点。



二人が過ごしてきた時間は楽しいイチャイチャニコニコカップルのそれなわけだけど、同時に、二人の人生にとっての相容れなさ、抜き差しならなさから目を背けるためだけに維持されてきたわけだから、全く建設的でも前進的でもない。

移ろいゆく世界において、「いつまでも梨が冷やしてある絶対安全な場所」なんて、本当はそんなところはないんだ。

いつか解散して、バラバラにしなきゃいけないんだ。


二人で台本を読んで、口から出るのは心の底から湧き上がった、今まで一度も向き合った互いの本心。

相容れなさを受容し容認した、初めて部屋の全容が見えたあの時間。



いつまでも残る思い出と夢が詰まったあの部屋が、それが心の中のものだろうと、それを表現した舞台上のセットだろうと変わらない。
だから、ラストのアレが実像だろうが虚像だろうが、"同じ"なんだと思いますよ。


しかしそれは、"あの頃に戻りたい"とかそういうのでもない、ただただ懐かしみ慈しみ愛でるだけとなる過去であり、それゆえにこそ堪らず涙の込み上げるような心象風景。



演劇の良さ(≒作家として劇を作る良さ)とは、人生を生きる良さと繋がるところがある。

だから劇自体も、下北沢に閉じられたニッチなハイセンス趣味じゃなくて、もっと普遍的で人間の心に即した優れた芸術であるというのを語っているし、その語り口はそのまま赤裸々に半生を綴ったものになる。

…っていう小説を、今こうやって映像芸術にしてて、その中でセット作って劇やってるっていうハナシなんですけど、どの視点のどのフェーズであれ、「人自身」を描いているという点で一貫しており、だからそれは私達の人生そのものにスポットライトが当てられている、とも言える。


何か気を衒って人の気を引こうとしてもうまくいかないから、人を遠ざけるような生き方してスカしてた時は酷評の嵐でカスみたいな行き様だったと思うけど、人と間近に生きてみて、人に触れて心を開いてみたら、最後に残ったのは後悔でも失望でもまして怒りでもなく、ただただ感謝だけだったわけでしょう。

その感謝を綴ったら、自ずと人の心に届く作品になっているわけでしょう。

「積み重ねた虚構の中で真実を曝け出す」という点で、永田の人生が再生するポイントと劇の素晴らしさとは重なり、繋がっている。


作品を見せる頃には、もう世間の評価とか人々があの劇をどう判断したかとかは全く描写されないし、興味も湧かない。
「彼女に届いた」というその一点だけでアレは大成功だったということなのだ。

結局あまりにもいい人だから、彼女はごめんねって言ってたけれど、仮面をつけておどけ続ける彼の方は、その胸中は感謝でいっぱいだっただろう。
それが彼女に届いたから、それでいいのだ。



劇は終わっても、人生は終わらない。
作品を観終わっても演じることをやめても人生は続くんだけど、それでも、心にずっと残る舞台は人を生かし続ける。

何が舞台の上になるのか下になるのかは見る角度によって千差万別に変化してゆく。
タイトルの"劇場"とは、すなわち人の生きる世界そのものであると言える。



「客観視」の話だよね、これ。

客の観点から視ると書いて、客観視。
舞台の上にあげられたものは、もちろん間違いなく客観視できている。

では、自分のことについてはどうだろう?
客観視できているか?

彼はずっと自分から目を逸らしていた。
客観視できていなかった。

それをああやって曝け出してみたから、舞台の上でやれるものに仕立て上げられたからこそ、彼は一つ違った"ステージ"に立てたわけだよね。

だからこそ、それは涙を流さずにはいられない愛おしい記憶、心に残る劇として完成されたわけだよね。


舞台の上と下を切り取らず、部屋の外と中を隔てる壁を倒して、心の表と裏をひっくり返して、窓から空気を入れ替えて、紙の宝箱のフタを開けて、劇と人生とを本質的に繋いだ結果として二人に訪れた大きな変化は、決して悲しんだり後悔したりするようなものではなかった。

それに気づいたところで、本作は幕を閉じる。
いつまでも記憶に残る舞台を胸に。
いい劇を見れた。

本作は即ち「客観視できるまで」の話であり、だからこそ、締めくくりが舞台上であるということは、この上ないハッピーエンドという他無いだろう。

いい「劇場」だった。
ナイスでしょ。



いやーーーーー面白かったしツラかったぁーーーーーw
わしにそんな寄生スキルはないので実体験としては重なるところはあんまりないけど…でもなんか、自分の中にある惨めさを受け止めきれずに葛藤してバグる描写にはすごく刺さるものがあって、とても普遍的なテーマを描いた作品だなと思いましたね。

全くピンと来ない人もそれなりに居る…とは思うけどね。
ずっとリアルを生きてる強いタイプの人にはチンプンカンプンかもしれん。

テーマだけでいうと、これLA.LA.LANDそのまんまな話だけど……俺的は断然こっちの方が沁みるし、キツかったw

いやぁー良い映画だな。
また観たいような、もう観てられないような赤裸々さ、すげーよ又吉パイセン。

面白かったっす。
ごっつぁんす。
ロッツォ國友

ロッツォ國友