カラン

JLG/自画像のカランのレビュー・感想・評価

JLG/自画像(1995年製作の映画)
5.0
“JLG/JLG - autoportrait de décembre”という原題。”JLG/JLG “というのはJLG par JLG、すなわち「ゴダールによるゴダール」ということだろう。副題は「12月の自画像」となる。wikiには62分とあるが55分とBlu-rayにはある。純粋な雪のように、ゴダール映画特有の外連味(けれんみ)が薄いが、まぎれもなくゴダールを痛感させられる傑作。彼は1930年の12月生まれ。65歳の頃の作品。


☆ゴダール的① A1やA2 

この後期ゴダールの中編は、女優を女優としてフィーチャーしていない。周知のようにアンナ・カリーナ(A1)やアンヌ・ヴィアゼムスキー(A2)といった女優たちを60年代に起用し続けた時、ゴダールは女優としてのアンナやアンヌを映画に出させていた。それぞれの固有の表情をもち、具体的なキャリアを持った、誰もが知る女優を自ら創作した映画空間に出演させる。極めて肉体的で歴史的で、実在的なモードであるので、その女優が何らかの美しさや愛らしさを持つ女優なのであれば、結果的に、ゴダール映画はその美しさや愛らしさを比類ない仕方で捉えることが可能になる。

こうした女優たちがゴダール映画で発散するのは、その女優が所有している美的要素である。ゴダールはそれをそのままスクリーンに捉えるので、ある意味で女優の《引用》でもある。なぜなら女優には映画史的なキャリアがあり、その女優としての女優を顕現させるのであれば、ゴダール映画の女優は《引用》なのである。

こうしたことはおそらくゴダール的シネマ・ヴェリテのスタイルと緊密に結びついており、ゴダール映画の個性となっていただろう。現実を偽装する映画を鑑賞してフィクションを現実であると錯覚して現実を忘却させる常識的な意味での映画ではなく、女優であれ、哲学であれ、《引用》そのものを提示してカメラも撮影者をも映画内で映し出すことで、映画を映画として鑑賞させる、映画で鑑賞者の現実を侵食する、真実の映画、それがゴダールの映画である。


☆ゴダール的② M1とM2

『カルメンという名の女』(1983)のマルーシュカ・デートメルス(M1)とミリアム・ルーセル(M2)は、A1やA2といった女優たちをフィーチャーした前期とは違っている。『カルメンという名の女』はある意味でA1やA2という2人の女優を1つの作品に同時に出現させているようであるし、またM1とM2に関しても、それぞれの女優としての女優を具体的に顕現させる前期の《引用》的なフィーチャーではないように思えるのだ。2人なのであり、かつ、《引用》的フィーチャーでない。この変化は些細なことではないのだろう。

本作『自画像』では、A1がいない、あるいはA2がいないというだけではない。M1とM2とかと区別できるような仕方ですらない。つまり無名の出演なのである。しかし、疑似的なエスタブリッシングショットとして挿入され続ける渚のロングショットは『カルメンという名の女』と共通であるし、自画像として自らを語るゴダールは「ジャン氏」や「ジャノJeannot」と書かれたノートを映す。この「ジャノJeannot」とは「ジャンではない」ということであり(私の『カルメンという名の女』のレビューを参照されたい)、『カルメンという名の女』では精神病院にいる映画監督の「ジャノ叔父さん」である。

『カルメンという名の女』がM1とM2を、A1やA2とは違った仕方で映画に出していていた意味がここで理解できるだろう。《引用》的フィーチャーの焦点が「ジャノ叔父さん」に移ったのである。それ故、この『自画像』は『カルメンという名の女』を凝縮し、反-物語的な物語という物語性をも除去して、冬のスイスの清浄な空気のなかで、JLGがJLGを引用する映画となるのである。しかし、それは可能なのか?


☆2つの三角形

劇中でジャノ叔父さんことJLGはステレオ効果の図を描く。ステレオは左右のスピーカーから音を出すと、2台のスピーカーから発せられた別の音が、左右のスピーカーを結んだ線の中央の奥に、虚像として1つの音像を形成する。

すると、2つの異なる音を発する2点と虚像としての1点を結べば三角形ができる。三角形の頂点は虚像である。頂点の位置にスピーカーは存在しない。それは実体的にそこにないが、あるように聞こえるし、うまく調整されている場合にはホログラフィックに可視的な音像を結実するのである。ちゃんとしたステレオ・システムを音響に慣れていない人に試聴してもらうと、それだけで驚くものである、「どこから音が出てるの?」と。だから『自画像』でのJLGの話はごく常識的な意味で正しいステレオ・システムの理解の仕方であるし、それをゴダールは白い柔らかそうな紙にマジックでゆっくり丁寧に図示する。

ところで、この映画は『自画像』であるので、その実像のように思える虚像を頂点とするステレオ的3角形を、《自分》がどう捉えているかを描き出す展開になる。そこでJLGは頂点がさきほどとは反対側に来る逆三角形をやはりペンで描いてみせる。《自分》の目の前には左右にスピーカーがある。その2点と《自分》を結ぶと逆三角形になるが、自分には《自分》は見えていない。それはステレオシステムの最初の三角形の頂点が本物に見える虚像であったのと同様である。

最初のステレオ的三角形の頂点の虚像はおそらくスクリーンの内部のことである。映画のスクリーンは2次元の平面であるが、その平面は存在しない内部を映し出す。平面に内部はないが内部が見えるように、ステレオの音像は左右のスピーカーが生み出す虚像である。その虚像を存在しない場所に聴きとるのは、スクリーンの平面に存在しない人物や空間があると見なすのと同じである。それはゴーストである。そしてそのゴーストがそこにいると聴き取る《自分》とは、映画を観る《自分》なのであり、それは虚像に対応する不可視の自分、痴呆でしゃがれ声のボイスオーバーで不可視の場から語りだす、白髪のゴーストとなるのだ。

この映画から27年ほどゴダールは生き延び、映画を撮り続ける。最後はとても苦しかったようだ。幇助自殺だった。


☆スクリーンを観る《自分》

『自画像』のスクリーンは大振りのテレビのモニターとなる。このテレビの数メートル前にビデオカメラが三脚に乗せられている。ビデオカメラはケーブルが垂れており、テレビと繋がっているようで、ビデオカメラの背面の小さなモニターはテレビと同期している。そのモニターをJLGが観ている。そのJLGの白髪だらけになった後頭部が鑑賞者のスクリーンに映っている。JLGの白髪の後頭部が鑑賞者に迫ってくるように視線の誘導が行われている。画面奥に向かって鏡像が複数化し連鎖していくのはよくあるが、ここでは手前に伸びてくる。

このスクリーンの奥から手前に向かって、つまりこの映画を鑑賞する《自分》に向かって来る視線の運動が描き出しているのは、上で説明したステレオ的三角形からそれを反転させた逆三角形への眼差しの動線なのである。ステレオの三角形にまつわる抽象概念を、自画像という映画のモチーフに即して映像によって描き出したシーンなのである。

このシーンの凝縮された凄みを感じ取れない人が、痴呆のジャノ叔父さんの風貌をもって、凄くないものを変てこに描くことで凄く見せかけている、いつものくだらないゴダールだと放言するのだろう。ちっぽけな人間の理解できないものに対する反応としては、ありふれたものだ。

『自画像』のビデオカメラ、またモニターのテレビは映画の装置ではない。このことはモンテ・ヘルマンの『果てなき路』(2010)とリンクする。つまり、この映画のカメラとは反-映画的な装置なのである。これはジョージ・ルーカスが旗頭となるだろう、2000年のデジタルによる映画の革新が一回りした後にやってきた映画史上の重大な問題なのではないだろうか。


☆ 12月の汀

この映画でゴダールは真っ白である。12月のスイスの湖畔、雪。虚像に向かい合う不可視の《自分》は、幽玄の境域をそぞろ歩くゴーストになる。カメラを回転させながら、別のシーンに繋がるが、ディゾルブにはならず、いつものように声だけが重なり、シーンを跨ぐ。素晴らしい集中力で、映画の純度を高めていく。


Blu-rayで視聴。画質は美麗。2chの音質も良い。
カラン

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