WILDatHEART

ギルバート・グレイプのWILDatHEARTのレビュー・感想・評価

ギルバート・グレイプ(1993年製作の映画)
4.6
『家族という桎梏(しっこく)』


大切な絆であり、同時に逃れることのかなわぬ重い枷(かせ)でもある、家族という名のしがらみ。
ミステリアスな異邦人が保守的な共同体にもたらす不思議な奇跡。

この二つのサブジェクトはラッセ・ハルストレム監督が長年に渡り拘ってきたテーマのようで、「ショコラ」(2000)においてたくさんのメタファーを散りばめた完成度の高いエンターテインメントとして昇華されるに至るのだが、それよりも以前に製作された本作「ギルバート・グレイプ」(1993)ではより素朴でシンプルな、しかも率直な形で表現されていた。


↓以下、ネタバレなので読まないでね!


"We're not going anywhere."
(僕らはどこへも行かないよ。)
そう言ってギルバート(ジョニー・デップ)は家族として生涯離れずに生きることを弟アーニー(レオナルド・ディカプリオ)に約束するのだが、この言葉がまるで自分自身にかけられた呪詛(じゅそ)のように重苦しく木霊(こだま)する。
そんな彼はまるで家族という檻の中に閉じ込められた囚人のようである。

ギルバートだけではなく、カーヴァー家の人間模様にも呪いのような家族の縛りは見て取れる。
彼等もまた、家族という沼にどっぷりとはまり込んで今にも窒息しそうである。
実際カーヴァー氏はビニールプールで溺れて窒息死してしまう。
ちっぽけで狭いプールは、窮屈で逃れがたい家族のメタファーのようにも映る。


この物語が忘れ得ぬ印象を残す所以は、家族のしがらみからの解放が旅人によってもたらされる奇跡としてだけではなく、実はその大切な家族の死がきっかけになっているという厳粛な事実を描ききっていて、美しいだけではない現実の苦味をも備えていることにあろう。
カーヴァー氏の死によって、そしてグレイプ家の母親の死によってようやく彼等は解放され、新たな人生へと歩を踏み出す。

愛人であったカーヴァー夫人(メアリー・スティーンバージェン)のことを生涯忘れないと言うギルバートは、町の他の住民から見れば重罪の容疑者でしかないカーヴァー夫人にも祝福を与え、自身もまた新しい門出を迎えることになる。

ギルバートの母はその死によって一家にかけられた呪縛をついに解き放ち、ギルバートに新たな生命力を吹き込むという最高の贈り物を残して逝ってしまった。

"We can go anywhere."
(僕らはどこへだって行ける。)
最後にアーニーに言い聞かせるギルバートの言葉は、まるで彼自身の人生を祝福する祝詞(のりと)のように清々しく心に響いた。


↓若い頃のジョニーとフェイ・ダナウェイが出演していたMV
Into the Great Wide Open /Tom Petty & The Heartbreakers
https://youtu.be/xqmFxgEGKH0?si=gaYwOULPvz7kFSO_
WILDatHEART

WILDatHEART