あでゆ

バットマン リターンズのあでゆのレビュー・感想・評価

バットマン リターンズ(1992年製作の映画)
3.9
ゴッサム・シティに現れた謎の怪人ペンギン。彼はシティの実力者と手を組み、町を裏から支配しようと画策していた。そして彼の野望はやがて、バットマンの知るところとなった。しかしバットマンの前にキャット・ウーマンと名乗る新たな敵も現れる。

やはり世代上、バートン版よりも先に『ダークナイト』を信仰してしまったために、良作を良作として評価しきれない場合が存在する。というのも、『ダークナイト』のバットマン観は本作を前提としたアップデートとして存在するためだ。
本作はバットマンとキャットウーマン、そしてペンギンの3人のフリークがそれぞれの方法で社会に認められようとする話だ。そして社会に認められるためなら、醜い足の引っ張り合いもいとわない。特にバットマンとペンギンの間で行われる恥のかかせ合いのような戦いは、ヒーロームービーとは呼べないやり取りだろう。そこにはもうヒーローそのものが持つ正義のような何かは既に存在しない。その意味では『LEGOバットマン』とも少し共通するテーマではあると思う。

しかし、本作が『ダークナイト』や『LEGOバットマン』と比較して決定的に異なる点は、バットマンが自身のことをフリークスとして自認している点だ。バートン版のバットマンは、他作品に比べて、あまり殺人に対する意識も低く、ちょこちょこ殺しにかかる場面も存在する。バットマンが不殺の誓いを立てる理由は、自身が他の悪役、フリークスとは決定的に異なるとう言い訳を可能にさせるシステムで、ブルース・ウェインを人間やヒーローとするための最後の生命線だ。

物語中盤、仮装パーティーのシーンはもう決定的で、その場でブルースとキャットウーマンのみが素顔で参加するのは、彼らにとってはその姿が現実世界に対する仮装であり、バットマンの姿が本質だからと認めているからだ。自身の本質を認めてしまい、その属性の中で堕落した行動をとったり、フリークス同士で慰め合うのも良いかもしれないが(俗に言う「ありのままの自分になるの」)、やはり『ダークナイト』のように、心の中では悟りつつも、それでも自らを律して生きていく、この解釈のほうが上質であるように考えてしまうのだ。
自らを律しなければいけない理由は、この世界は既に規範やルールによって飽和しているからだ。『ダークナイト』のジョーカーですらも、規範やルールには勝てなかった。
『ゴーン・ガール』とかもそうで、いくら「自分らしくあれ」と言われたって、この世で生きていくには絶対にそんなことだけでは不可能なのだ。

描写的には、前作にもあったゴシック&ファンタジー感がちょっと行き過ぎて、最早ホラーに近い部分まで行き過ぎており、バットマンシリーズというよりもティム・バートン作品として考えて間違いない作品だろうと思う。
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