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ラストムービーのotomisanのレビュー・感想・評価

ラストムービー(1971年製作の映画)
3.8
 まさか陰で監督が舌を出してるなんて思いたくはないが、映画に取り込めなかった挿話がどれほどあるのか、その事を監督はどれほど意識してたのか、あるいは前作で二人の人生を中断したような不意の死、実際には今回はそこにも至らないわけだが、それ以外の終わらせ方が頭にあったのか聞いてみたいもんだ。
 映画の終わり、ヤケクソめいた山師とスタントマンの遣り取りから思うのは、黄銅鉱と金の区別もできそうにないのに大判小判の夢見心地でいそうなこの山師と監督が同類に違いない事だ。そんな夢見が酒や薬物でイッテる脳みそからもたらされるのか、それとも、この映画をいかにもぶっ壊して見せたような、そんな或る主義に基づいた事なのか。実は、その主張の肝を"MISSING SCENE"部に挿入しといたんだが、あのようなわけでね、というなら笑ってやろう。
 あの主義がどんな思い付きだったかはヤクと一緒に飛びました、でも笑ってやるが、有料放送代とメディア代、計100円分は取り返さねば。
 そこで監督に訊ねたいのは、先ず、"カンザス"が現地に残っている理由と届いた手紙の文面の意味である。"カンザス"の言から想像するしかないが、
「セットを建てる金はあるのに、なんで映画は送れないのか」
「俺たちはここで何を?馬もいるのに」
「メキシコなら簡単かもしれないが、これはどこにも再現できない」および、"MISSING SCENE"部分である。
単純に考えれば、映画を現地で上映する事を彼が受託して、そのあがりで残務となったセットや馬の始末を進めるという事である。それなら同時に、マリアを通訳としてエージェントであるふたりの滞在経費も危うい事態のはずだ。メキシコうんぬんはセットを再利用する場合の保管維持の件だろうか?この件は物語として続けてゆくための細部であるが監督は決していいかげんな放り出しを狙っていたとは思いにくいところだ。そして、宙に浮いた撮影の舞台が村人の妄想の種になるというわけだろうが、想像はふくらんでもこの荒っぽい端折り方にはどこかウッチャリ気分を感じてしまう。
 ついで訊ねたいのは、村を侵した撮影熱である。演技を間近に見ていないだろう村人にとって、映画制作では転落死であれ射殺であれ、撮影によって死者が生き返るものとして受け止められる、という事なのか、それとも、殴らない殴り合いの、演技というウソを承知してそのウソを嫌い、同じように撃って弾が当たれば死なねばならない、剣呑であっても撮影の模倣を成就させるためなら、その間起きてしまった事は傷害にも殺人に当てはまらないとする、どんな「撮影」の至上性が村人の心に植え込まれたのだろう。これが、監督にとっての当たる映画制作につきまとう暗黒面、「模倣」という言葉を外せば監督の所属するスタジオがその通りと示唆するところなのか。
 加えてもし、死者が生き返ると信じたなら、村人が邪魔な神父の退去を求めるくだりは興味深い。アメリカ人の監督が死者をよみがえらせたなら、神父はなぜそれをしないのか。撮影の模倣を繰り返す中から村人はアメリカの更なる不思議な力に憧れるのかも知れない。そこが、半世紀前のまだ電気も通らない山の村の事である。
 なににせよ、村を挙げたような騒ぎでも村人の誰一人名前が挙がる者がいない。彼らは単に個人的な監督誰それ、主演誰それで名を挙げる以上の何かを模倣撮影から得ようとしているようでもある。怪我も落命も惜しまない村人の撮影演技の真剣さもまたウッチャラれる。この映画制作とは別種な真剣味という人間ならありそうなことがいいネタであったりする。そして映画の目指すところと全く異なる模倣撮影の行方の謎も無に帰す。実際にはそれを問う意味は全くないのだが、皮肉にも監督が考えもしないような、ひとびとの振る舞いについて面白さをそそらせるところとなっている。
 それは例えば未知な文明とその文物への憧れやそれをもたらした者たちへの関心あるいは嫉妬のあらわれという事で、彼らが飛行機で飛んで来るのを見たならば、村々では実用にはならない滑走路を作りデコイの飛行機を作って飛行機の来訪を願うような事である。しかし、その場合願うのは白人の再訪ではなく、村人らのよみがえった祖霊が飛行機に乗って白人の便利で素敵な物品を土産に戻ってくる事である。なるほど、それなら白人"カンザス"のさんざんな扱い様も頷ける。だからこの上、村で映画が上映される運びとなったなら撮影熱の村人はさらにどんな衝撃にさらされるだろう。ホッパー監督を置き去りにして想像は尽きないが、実に監督は関心など無かったろうところにも知らぬ間に踏み込んでしまっているわけである。フラー監督が踏み込んでしまったペルーの山村でそのとばっちりを"カンザス"が食らうようにホッパー監督の「実はウッチャリ」のお蔭で半世紀のちまで無用の妄想が尽きないわけである。

 訊ねたいような、どうでもいいような事なら幾らでもある。そんなひとつが30分目、マリアとふたり墓参りから村へ戻る行路の挿入歌である。
「気取り屋め、白昼夢には我慢ならない。
まいったな、俺の時間と人生はひとつの動物園(menagerie)
今は23歳、これがずっと続く
青春に絶望する俺は自分を見失い
用心しなきゃ死ぬまで飲んじまう、当然用心しない」
スタントを通して"カンザス"は様々な人間のただ事じゃない生き死にばかりを演じてみせる。すなわち動物園(menagerie)になぞらえた"カンザス"はその中で数々の珍奇な見世物めいた動物たちという運命的人生を宿している。それは碌な人生ではないという事でもあるが、そんな"カンザス"は同時にホッパー監督でもある。それなら、白昼夢にも我慢がならないのもホッパー監督当人であるはずだろう。であるならば、酒と薬物でイッテる脳みそで監督していたとは思われない。
 それが一通の手紙で物語を暗転させるのなら、スタジオとの一戦こそ物語の主戦場ではないだろうか。そうした在り来たりを嫌うのもあろうけど、向かうに事欠いたかのようにペルーの文化人類学的熱病村の餌食かイカレ山師の片棒とは情けなくはないか?むしろ、こっちの方が墓を暴いて怒鳴ってやりたいところだ。
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