せいちゃん

カルメン故郷に帰るのせいちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

カルメン故郷に帰る(1951年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

「河内カルメン」のあと、カルメンつながりで見たんだっけ。こちらもビミョーなアタマで華やかな美貌のムスメの話。

この戦後の時代の価値観、聡明で貞淑で働き者で男をたてる日本の良妻賢母(でも性的魅力は3の次)を称える戦前からのタテマエと、西洋かぶれ=頭が足りなくて騙されてすぐ股ひらく馬鹿娘(でも明るくて皆がアゲアゲ)とが、カルメン初恋の先生の奥さんとカルメンとの対比で出てくる。

総天然色カラーの最高の利点は、華やかな"装い"を映せること。モノクロームの端正さでなく、歌や踊り同様に心のビタミンになる色彩……それは女性のドレスだったり美しい自然だったり……を見せられることだよね。
奥さんの地味で実用一途の着物でなく、カルメンの派手で実用無視のドレスが、総天然色映画にはよく映える。

カルメンに慕われた高潔な先生は、戦争のあと「見えない」ヒトになってしまった。「見たくないものは見えません」という暗喩なんだろうが。
戦後の世相では芸術=オルガン(高い理念)はあっても生活の足しにならない。そのオルガンも、踊り子に下心のスケベ金貸しに借金のカタとして取られる。ふるさとの自然を詠う彼の曲のお披露目も痴話騒ぎで台無しだ。

対してのカルメンたちの"芸術"は、自然とともにある喜びを体現している。若い女性の歌と踊りや生まれたままの姿は天然の芸術と言えるし。厳粛に仰ぎ見る山の自然ではなくそこで笑って踊る緑の草原の自然だ。田舎では道を歩くだけで目立つ彼女たちは、見るのではなく見られる存在だ。

だから、カルメンたちの踊りに村人はわーっと集まる。若い男のみならず、おにぎり頬ばる爺さん婆さんや騒がしいガキんちょにいたるまで。観客はいつでも、美人やハダカや珍しいものが見たい。タイクツなムラにエロや笑いや驚きの旋風が欲しい。カルメンたちは自分たちのショーは芸術だと信じて疑わなくとも、つまりは村にやってきた"見世物"だ。
芸術はそれを笑うと観客たちのほうが馬鹿だと言われるものだ。
見世物はそれを笑う観客たちのほうが賢い…ということになっている。

カルメンたちの芸術つまりはストリップショーを見れない・見ないのは、盲目の先生以外には実の父親と校長だ。そして牛に頭を蹴られた娘カルメンを不憫がる。……でもこのムラに美しい自然と美しい情操以外に何かあったのか? カルメンにお小遣いをもらう妹の姿、盲目の夫の代わりに大黒柱で働く妻の姿が、カルメンにありえた別の可能性だ。

頭の足りない、ハダカを恥じない、ムラの不憫な笑い者のカルメン。
だけども、ムラの誰も頭のあがらない金貸しから金をせしめてオルガンを取り返し、村に"キレイな芸術"も取り戻し、父や妹への援助孝行も抜かりなく、華やかな装いと明るい笑顔でカルメンたちは去っていく。

まぁ、映画芸術vs大衆娯楽、興行の実際の隠喩と思えばいいのだろうけど。戦後のムラのどんよりな鬱屈を、明るい色彩と明るい笑顔でふっ飛ばしてしまうカルメンのパワーは、見ている者の救いになったには違いない。当時はまだ、農村が都会かぶれを笑えた時代でもあった。
せいちゃん

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