小屋

恐怖分子の小屋のレビュー・感想・評価

恐怖分子(1986年製作の映画)
4.3
 この作品も、エドワード・ヤンお得意の人物が出てきて引っ込んで出てきて引っ込んで出てきて……て感じの冒頭で混乱、さらに雰囲気暗くてセリフも少ないから眠くなった…( ; ; )けど、中盤くらいには人間関係が自分の中で整理されてきて面白く見られた!
 今まで見た作品と比べると、わりと初期よりの作品だったのに、この作品でも「群像劇的な手法」と「都市生活者の孤独」というテーマが描かれていて、その孤独感をヤバいところまで尖らせた時はこう撮るんだよ!ってぶん殴られたような気分になった…。まあヤンヤンとか恋愛時代に比べてもエンタメ性皆無だけど、この孤独感を一身に背負った登場人物は一体全体どうなってしまうのか…という部分で見ればいけると思う!笑

※以下ネタバレ

 キャラクターが交錯する手法は、映画を見始めた時こそ誰が重要なのかわからず辛いが、そのデメリットを取り返せるほどのメリットがあると感じていて、それは“だれか”という一人称から描けることには限界があるが、それを超えて“だれかたち”という視点の塊のようなものを鑑賞者に与えることができるということだと思う。
 そして、“交換可能性”。この言葉をエドワード・ヤンの解説している人々が何回も使っていたが、今までそれほど腑に落ちてはいなかった。だがこの作品の冷徹なまでのリアリズムに裏打ちされて、それを染み入るように感じた。資本主義に由来する「自分なんていくらでも代わりがいる」という僕たちが住んでいる社会の現実は、人間関係を希薄にし人が持つ功利主義的な側面を過剰にさせる。それをこの作品では、功利主義にどっぷり使った医師の夫が、小説家の妻に振られ、他人を貶めたのに課長にもなれないという過程を経ることで狂気に染まっていくというストーリーで描いている。これは80年代の台湾の経済が好調な時代に描かれたからという理由もありそうだが、非常にシニカルな視点だと感じた。
 あと最初の方で「群像的な手法」と書いたのには理由があり、この作品は群像劇ではなくあくまで主観は医師の夫だと感じたからだ。それはラストの「人を殺す想像をしてから自殺する」描きかたからもわかる。だが群像劇で全くないかと言われてとそれは難しく、どちらの要素もある作品だということが1番腑に落ちる答えだろう。都市生活者の空虚さを群像劇の手法で描き、それを自分の中にパンパンに貯めてしまった男の姿を主観で見せる。だが群像劇的な方向に大分寄っている『ヤンヤン』や『恋愛時代』に比べると、少々物語に“ライド”し辛い作品になっていると感じた。完成度の面で言えばそちらに軍配が上がると考えたのでこの評価にした。
 最後にこの作品の画面について。少し青く霞がかったような台北の街の光景は非常にスタイリッシュだ。なんかふとウォンカーウァイに画の撮り方が似ている気がするなあなんて思った(どこがと聞かれるとぱっとは出てこないので、全然違うかもだけど)。『恋愛時代』でも語った鏡や影を使う手法も印象に残る形で使われている。見ていて画像が気持ちの良い作品でもあると感じたので、それだけでも見る価値は確実にあると思う。
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