タランチュラ小堺

テラビシアにかける橋のタランチュラ小堺のレビュー・感想・評価

テラビシアにかける橋(2007年製作の映画)
3.6
「テラビシアにかける橋」鑑賞。

 原題は『Bridge to Terabithia』
原作はキャサリン・パターソンの同名児童文学をガボア・クスポ監督が映画化。

空想成分が最近欠けていたので、インスピレーション補給にと、少年少女の力を借りたいと思い、Google先生に『ネバーエンディングストーリー 類似作品』とブランクに打ち込み、直感で本作を鑑賞しました。

なので、原作小説はおろか、本作のことも監督もキャストも前情報や先入観は、全く頭に入れずに観られました。

オープニングの雰囲気から心惹かれるものでしたねぇ…。

暗がりの部屋から、外へ向けひた走る少年ジェスの実写に、指で擦れば今にも消え入りそうな、儚い鉛筆のタッチで、彼だけの絵空が映像に鮮やかに彩られていくもの。

語らずとも、作品のコンセプトを視覚的に表現できていて、空想と現実、虚実が交差するファンタジーを斯様に切り取れるのは、映画という総合芸術特有の具現であると、ありありと分からせてくれます。


以下、ネタバレ含。


【現実逃避ではなく、現状打破の為の空想】


 心を閉ざす少年が運命的、いや、彼にとっては必然とも言える“ボーイミーツガール”を経て、特別な場所を創造し、新たな人間関係に触れ、徐々に閉ざしていた心を解放していきます。

そうした場所にいる事は一見にして、家庭や学校が辛いから逃げ場所をそこに作っているだけの“現実逃避”に見えかねません。

ジェスは父にことある毎に「夢ばかり見るな。働いて金を稼げ。」と何度もきつく詰められ、学校でもいじめは続くのですから。そう見えるのもおかしくはありません。

 しかし、妹メイベルがいじめられたことがきっかけでジェスとレスリーは何とジャニスへの報復を決行します。

その内容はジャニスが好意を抱いている男の子からの偽の恋文を綴り、恥をかかせるという一番鋭くジャニスの心を抉るものでした。

想像力豊かな二人が手を組むことで、空想で培った要素をもって現実のいじめに打ち勝ったのです。

故に、ただの“現実逃避”ではなく寧ろ逆の“現状打破”というのが、このテラビシアで二人が成し得たことであり、二人にとってのテラビシアが存在する理由であると考えられます。

同時にこうした“現状打破”の力を持ち併せつつ、“解放する”場所の象徴としてテラビシアは描かれています。

これは、勿論ジェスとレスリーが想像力豊かであることと、周囲、即ち現実に馴染む事が出来ない孤独を抱える人種であるからこそだと思います。

二人が現実を生きる為には、空想を介してではないと交われない不器用さが、テラビシアという産物を生み出したのでしょう。

 ですが、一番大事な点として、テラビシアという架空の国の創造で得た力を今度は“行動”として実践せねばなりません。

つまり、理想を実現する為のプロセスとして、思考するだけでは何も変わらず、実現に向けての具体的な“行動”が必要となるわけです。

だからこそ『テラビシアにかける橋』は単なる“願い事が叶う国”なのではなく、現実を変えていく為の、前向きな思考を培う大切な場所なのです。

それが動物や大きな木をいじめっ子に見立て、破壊する様な行為だとして周囲からは陰惨的に見られようとも、心のエネルギーを養う生産性はかなりポジティブなものです。

どんな人も学校で、職場で。嫌な人の落書きをしたりしてスカッとするのと同じこと。

ただし、ジェスとレスリーの行なっている行為はかなりのハイレベルなシャドーボクシングの様なものですがね笑


【橋】


 普遍的に誰もが経験しうる“絶望の通過儀礼”をジェスは橋をかけることにより、それらを受け入れ、“少年”から“青年”へと成長していくプロットが、タイトルの通り『テラビシアにかける橋』の意味なのだと僕は解釈しております。

つまり、橋をかける行為が初めて「自分」と向き合い、そして「他者」と向き合って自分の力で自分を変えていくということです。

そして、再び訪れたテラビシアにレスリーの姿がいないのは印象的でした。

恐らくジェスはレスリーの“死”を誠に許容した為、思い出を“回顧する為”の場所ではなく、“未来を創る為”の場所であるテラビシアには存在しないのだと思います。

個人的には、1時間半の作品時間で、ここまで克己できるジェスの心情の描写不足を感じ、死以外の方法を以てして、成長を描いて欲しかったとも思いますが、これは趣味思考ですね。


 余談ですが、本作を通して“橋”という物体と、“橋”を用いた比喩というのは実に興味深く感じました。

本作においての“橋”も成長以外に、様々な意味を内包していると考えられます。

“空想と現実”

“生と死”

“宗教と世俗”

“自身と他者”

こちら側と向う側。それを繋ぐものとしての「橋」。

映画というのは、こちら側にいる観客をあちら側の世界に運ぶ「橋」のようなもの。

ただ、「橋」の上で誰も立ち止まったりはしない。誰もが通り過ぎて行くだけです。

僕はこの文章をしたためる時間に、その橋間で冷たく硬直した深い谷を見つめているのです。

故に物事を思索・創造する行為というのは、この橋間を見つめる行為に値するのだと感じます。

こちら側と向う側の、あるいは善と悪の、あるいは生と死の間に横たわる深淵とを。

それに憑かれた人間は空想と現実との間を行き来するしかないし、もしくは一生空想に囚われて深淵に堕ちてしまいかねないもの。

本作は美しく描かれてこそいるが、その橋は危うい橋を渡りかねない。そんな畏怖をも感じざるにはいられないのです。


【総評】


 虚実被膜の入り乱れたヴィジュアルは本当に惹き込まれる映像美を感じさせましたし、観る人によっては感動を覚えるストーリーは決して子供向けではなく、むしろ大人向けといえるビターなものです。

まるで“パンズラビリンス”のような毒気を含むファンタジーでした。

古くはグリム童話から、動乱の時代にも説話が永遠に守られるよう、消滅しないように保存する為、残虐性、暴力性を脚色し民間伝承は伝えられてきました。

だからこそ、名作と呼ばれるファンタジーには少々の毒が盛られているもの。

後半のテーマである“絶対的な別離”は原作を知らない自分からすれば、大いに衝撃的でした。

本作の持つ“毒”というのは、あくまで少年の成長を促す為の舞台装置的な“死”を感じさせ、少女の人生にとっての意義ある“死”に感じられなかったのが、解せなかったです。

ジェスとレスリーというカップリングが最高であるからこそに、二人の永遠を望んでしまった僕の願望がそう感じさせるだけだとは思います。

しかし、作品としては俯瞰的に見れば、スコア4.0の価値はあるかと思いますので、是非眉間の方は鑑賞をお勧め致しますよ。