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切腹のシノファンのレビュー・感想・評価

切腹(1962年製作の映画)
4.0
仲代達矢がいい。

『切腹』(せっぷく)は、1962年(昭和37年)9月16日公開の日本映画。配給は松竹。滝口康彦の小説『異聞浪人記』(1958年)を元に橋本忍が脚本、小林正樹が演出・監督した作品である。公開時の惹句は、「豪剣うなる八相くずし! 嵐よぶ三つの決闘!」である。昭和37年度芸術祭参加作品。社会派映画を監督してきた小林正樹が、初めて演出した時代劇映画である。武家社会の虚飾と武士道の残酷性などの要素をふんだんに取り入れ、かつて日本人が尊重していたサムライ精神へのアンチテーゼがこめられた作品である。しかしながら監督の意図とは逆に、外国の映画評はその残酷性を古典的な悲劇美として高評した。

あらすじ
1630年(寛永7年)5月13日、井伊家の江戸屋敷を安芸広島福すす島家元家臣、津雲半四郎と名乗る老浪人が訪ねてきた。半四郎は井伊家の家老である斎藤勘解由に、「仕官もままならず生活も苦しいので、このまま生き恥を晒すよりは武士らしく、潔く切腹したい。ついては屋敷の庭先を借りたい」と申し出た。これは当時、江戸市中に満ち溢れた食い詰め浪人によって横行していたゆすりの手法であった 勘解由はこの悪循環を断つべく、先日、同じように申し出てきた千々岩求女(ぢぢいわもとめ)という若い浪人を庭先で本当に切腹させるという挙に出た。ただし世間の倫理的批判を躱すために切腹志願者に対して、礼を尽くした対応をする必要があると考え、求女を入浴させ、衣服まで与えた。その際求女に対し、一旦は仕官が適いそうなそぶりをして希望を抱かせ、そのあと切腹に至らせるという念の云った陰険さを示した。

切腹に際し求女はいったん家に帰り戻り切腹することを申し出たが、勘解由はそれを逃げ口実と解し許さず直ちに切腹を命じた。実は求女には病気の妻子がおり、最後の別れを告げようとしていたのである。ここに至って求女は武士の意地を通すために切腹する覚悟を決めた。だがもともと切腹する心積もり気はなかったので、腹を召す脇差を準備していなかった。千々岩求女は武士の魂である刀でさえ質草に出さねばならぬほど困窮し、携えていたのは竹光であった。しかしながら勘解由はあえて冷酷に竹光での詰め腹を切らせたのである。

だがこの判断は世間からの倫理的な批判を招きかねない危険な処置でもあり、部下からも諌められたが勘解由は耳を貸さずあえて断行してしまった。結果としてこの判断の誤りが事を複雑にこじらせる原因となった。切れぬ竹光を、腹に向けて3度、4度と血を滲ませながら突き立て、脂汗とともに悶え苦しむ求女に、介錯人の沢潟彦九郎は無慈悲にも首を落とす時間を故意に遅らせ、死に至るまで壮絶な苦痛を与えさせた。勘解由の意を汲んで、藩士においてサディスティックな心理を共有する雰囲気が醸成されてしまったのである。

だが、そのことに勘解由は良心の呵責を感じ、自分がした酷な判断を多少なりとも悔いていた。それゆえに今回の津雲半四郎には、「勇武の家風できこえた井伊家はゆすりたかりに屈することはない」からと、そのいきさつを語り聞かせて思いとどまらせようとした。だが半四郎は動じず、千々岩求女の同類では決してなく本当に腹を切る覚悟であると決意のほどを述べた。こちらの温情を受け入れない頑なな態度に勘解由は腹を立て、同じ過ちを繰り返すことになることを知りながら配下の者に切腹の準備を命じた。

実は半四郎は求女の育ての親であり、求女が病弱な半四郎の娘を妻にもらってくれたため、彼は半四郎の女婿でもあった。二重の意味で息子であった求女が、冷酷にも詰め腹を切らされたことに、半四郎は深い遺恨を持っていたのである。そもそも、求女が井伊屋敷の門を叩いて切腹を申し出たのは、病気の妻を抱えて長く困窮していたため、あわよくば仕官、さもなくとも薬代を得たかったからであった。

まさか本当に切腹が聞き入れられるとは思わず、それでもいまさら妻に今生の別れを告げたいから切腹の前に帰宅したい、などとは武士の面目から口にすることは求女には出来なかった。求女はただ理由を隠して帰宅を嘆願したが、それを冷たく拒絶したことは、勘解由がその場では事情を知る由もなかったため致し方ないとはいえ、半四郎から見れば、酷薄な処置であり、あまつさえ竹光での切腹の強要については、断じて許すことのできないものであった。

いざ、切腹の時となり、半四郎は介錯人に井伊家中の沢潟彦九郎、矢崎隼人、川辺右馬介を1人ずつ名指しで希望した。しかしその3名は奇怪なことに揃って病欠であった。介錯は誰か他の者で事を早々に片づけたい勘解由に対し、半四郎は、悪事を犯した罪人ではない自分が請うた切腹である以上、介錯を指名するに道理有りとして拒否する。これに勘解由は異議を唱えられず、近しい配下を病欠3名の究明に走らせた。それを見越したうえで半四郎は勘解由らの知らなかった求女の事実と衝撃的な内容を語り始めた。

3名は求女を死に追いやった者たちであり、それを知った剣の達人の半四郎によって復讐として事前の果し合いで髷を切り落とされていたのであった。武士にとって己の不甲斐なさから戦いにて髷を取られることは、命を賭してでも雪がねばならない恥であったが、卑劣にも3名は名誉も命も惜しみ、髷が生え揃うまで仮病と偽って出仕しないつもりであった。その経緯を知ると勘解由は井伊家の恥が世間に広まることを恐れ、部下に半四郎を取りこめ斬り捨てるように命じた。

情け容赦もなく浪人の求女を竹光で切腹させ、かつ家臣が不覚にも髷を落とされたことが世間に知られれば、譜代といえども幕府よりおとがめを受けずにはいられないことを勘解由は知っていたからである。数十名の相手に囲まれる半四郎だったが、彼は泰平な寛永の世に育った武士ではなく、戦国の世を生き抜いた剣の達人であり、井伊家の家臣達は返り討ちにて多くの死傷者を出すに至った。

結局、半四郎は土壇場で切腹し鉄砲で討ち死にしたが、上記の病欠の3名については、沢潟は切腹して果て、他の2人は勘解由によって拝死を受け、返り討ちによる傷者は手厚い治療を受けた。そして公儀には半四郎は見事切腹したとし、死者はすべてが病死として報告された。管理職の勘解由にとって最優先すべきことは組織(藩)の存続であり、半四郎が笑った通り武士道は建前に過ぎなかったのである。
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