オーウェン

さすらいのカウボーイのオーウェンのレビュー・感想・評価

さすらいのカウボーイ(1971年製作の映画)
4.0
この映画「さすらいのカウボーイ」は、詩的なイメージと西部劇独自の素朴さで、人生のさすらいの意味を見つめた佳作だと思います。

この映画「さすらいのカウボーイ」は、詩的なイメージと、西部劇独自の素朴さを持った、公開当時のキャッチコピーで言うところの、"ニューウエスタン"で、「イージー・ライダー」で、アメリカ・ニューシネマの寵児とったピーター・フォンダが、初めて監督し、同時に主演も兼ねた意欲作ですね。

この映画は、いわば、"人間の情念"が、そのまま映像になった西部劇であり、映画で描かれる、その全てが素朴で、シンプルで、そして純粋なのです。

素朴さやシンプルさだけでは、映像は詩になる事が出来ないと思うし、その素朴さやシンプルさが純粋に結晶した時に、初めて映画は詩の心を持つ事が出来るのだと思います。
そして、「さすらいのカウボーイ」はまさに、そのような稀有な映画なのです。

主人公のピーター・フォンダは、おのれの心のおもむくままに西部をさすらい、人生をさすらっていきます。
そして、ふと、7年前に出て来た家に帰りたくなると、まるで風のように、妻と子供のいるささやかな農場へ戻って行きます。

いや、それは、正確には、戻るとか、帰るといった行為ではなく、それは、この主人公の人生のさすらいの中のほんのひとコマに過ぎないものであり、さすらう者には、方向といった概念はないのですから、行くとか迎えるといった言葉は全くあてはまらない事になります。

だから、彼は、妻が7年ぶりの彼を納屋には入れるものの、家の中に入れようとしなかった時も黙って、それに従うし、妻が迎え入れてくれれば、ごく自然にベッドをともにするのです。

さすらい人の生きる姿勢とは、まさに、このようなものなんだという、監督のピーター・フォンダの思想がよく表現されていると思います。

これは、さすらい人の仲間のウォーレン・オーツが危機に陥った時も、やはり同じ姿勢なのです。
フォンダは、ただ黙々とオーツのもとにおもむき、そして、死ぬのです。

そこには、正義感などというものはなく、勇気というほど、おおげさなものもありません。
あるのは、西部の空や野や森を自由にさまよい、飛翔する"西部男の純粋な魂"だけがあるのです。

このように、"ニュー・ウエスタン"と言われた西部劇は、多様な顔を持って我々の前に現われ、昔ながらの西部劇の枠から解き放とうとしていたのかも知れません。
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